mitsuhiro yamagiwa

2023-06-30

イメージで考える?

テーマ:notebook

一八

「人間なるものは、形式のひとつの源泉でしかない」『森は考える』

 むしろコーンが示すのは、「わたしたち」らが「わたしたち」を通過した先にある、「思考が人間的なるものを超えて(beyond the human)広がる」と表現される、”beyond”の境地である。

 でもどうやって、言語不在のなかで思考にかんする問いがそもそも生じうるのか、と聞いてみたくなるところだ。コーンの答えは、そういった可能性を想像するためには言語は超え出ていかなければならない、というものだ。

 「〔ヴィヴェイロス・デ・カストロの言葉では、〕「思考を脱植民地化する」ことが、私たちに伴うが求められる。考えることは必ずしも、言語や象徴的なるもの、人間なるものによって囲まれていないことを理解するためにも、そうしなければならない」(エドゥアルド・コーン『森は考える』)

 「言語はしばしば、われわれが経験にたいして開かれるのを助けるのではなく、かえって経験を閉ざしてしまうようだ」ジョン・ザーザン

 だが、なにに向かってーーと問うてみるとすぐに気づくのは、わたしたちは年がら年中、さまざまな方法で非言語的な型のコミュニケーションに従事しているということだ。

 森のように考えるとは、コーンの言うように、イメージで考えるということなのだ。

 ミャウウーにおける息をのむようなイメージの氾濫ーーそのほとんどが、右手を垂らして指先で大地に触れる触知印を結ぶブッダの偶像なのだがーーそのイメージの氾濫はまさに、見る者の意識を言語から離れさせ、言葉では「考える」ことができないものの方へと導くという目的にかなったものなのだ。

 コーンの議論を拡張させて、〔イメージ的思考の隆盛と気候変動との〕この同時性が確証するのは、人新世がわたしたちの対話者になったこと、まさに人新世がわたしたちを「通過」して思考していることなのである、と言っても良いだろうか。だとすれば、森にかんするコーンの示唆になぞらえて言えば、人新世について考えるとはイメージで考えることであり、わたしたちが慣れ親しんだ言語中心主義からの離脱を要請する、ということになるだろう。

 印刷された書籍の進化の歴史をたどってみるだけでも、かつてはテクストのなかに埋め込まれていたさまざまな絵画的要素(装飾的な縁取り、肖像画、色つけ、線描画など)がゆっくりと、しかし容赦なく削られていくことがよくわかる。小説のたどった歴史は、その縮図とも言えよう。

 しかし、こういった要素は一九世紀から二〇世紀初頭にかけて徐々に姿を消してゆき、ついには〈イラストレーション〉という単語自体が、小説のみならずあらゆる芸術分野において、軽蔑の意味をもつようになってしまった。

 これはまさに、〔(リアリズム)小説の歴史における〕あらゆる進歩が「世界をより住みがたくする」という犠牲のうえに勝ちとられる世界の地平なのだ。モレッティ『ブルジョワ』

「完璧になるほどに人間から脱する。この考え方を追求することには禁欲的な英雄性があるーー分析的キュビズム、セリー音楽、バウハウスが二〇世紀前半に行なったように。しかしエリート臭のある前衛の実験室で脱人間化された非個人性を追求することには、自分たちだけのファウスト的報酬があり、それと、ここで扱う文学が行なっているように一般的な社会の運命としてそれを提示することとは別のことだ。後者では「思い込みが打ち消される」という現実原則が苦痛に満ちた喪失を喚起する傾向があり、そこでは埋め合わせとなるものは見えていない。これがブルジョワの「リアリズム」の逆説である。その美学の達成がより徹底し明晰になるほど、それが描き出す世界は住みがたくなるのだ。これが本当に幅広い社会への覇権の基礎になりうるのだろうか」。

 だが、潮目は変わった。

 イメージを重ね合わせることができる時代に、わたしたちは突如として戻ったのだ。

 小説のテクスト世界に図像(イメージ)がじわじわ戻りはじめたのも、もとより偶然ではないだろう。

 人新世が文芸小説に抵抗する最後の、そしておそらくもっとも頑強な方法は、究極的には言語そのものへの抵抗というかたちをとるのだとするならば、そのうちに異種混淆的(ハイブリッド)な新たな形式が出現することになるような気がする。そうすれば、〈読む〉という行為自体がいまいちど変容することになるだろうーーかつて幾度となくそうしてきたように。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳