mitsuhiro yamagiwa

2024-03-27

アルゴリズムの眼差し

テーマ:notebook

 インターネットは透明で観察可能なものとして主体が元来構築される空間であり、後になっていた秘密を隠す。

 今日では解釈学者はハッカーである。現代のインターネットはサイバー戦争の場であり、そこでは秘密が戦利品である。

 しかしそれらの戦争は、インターネットはそもそもそも透明で参照可能な場であるがゆえに生じる。

 たしかにインターネットは巨大なゴミ捨て場としても機能する。そこではあらゆるものが出現するよりもむしろ消失し、ほとんどのインターネットの制作物は(そして個人も)、作者が達成したいと望んだほど広い注目を得ることは決してない。結局、皆自分自身の友人や知り合いに何が起こったかという情報のためにインターネットを検索する。

 作家であれ芸術家であれ、伝統的には作者の名声はローカルなものからグローバルなものへと移行した。後にグローバルな名声を確立するためには、まずはローカルに知られなければならない。今日では、自己グローバル化から始まる。自分自身の文章や芸術作品をインターネット上に置くことは、ローカルな仲介を避けて直接グローバルな観客に向かうことを意味する。ここでは、個人はグローバルになり、グローバルなものは個人的になる。同時に、インターネットは作者のグローバルな成功を数量化する手段を提供する。なぜならば、インターネットは読者も等価にする巨大な機械だからである。

 現代文化の中で生き延びるためには、ローカルなオフラインの観客の注意を自分のグローバルな可視化にひきつけなければならない。グローバルに存在感があるのみならず、ローカルも親しみやすくならなければならない。

 非常にしばしばわれわれはインターネットを個人のコントロールの限界を超越した無限のデータの流れとして考える。しかし実際は、インターネットはデータの流れの場ではなく、データの流れを止め、遡る機械である。インターネットの媒体は電力であり、電力供給は有限である。それゆえインターネットは無限のデータを流れを支えることはできない。

 インターネットの読者の眼差しはアルゴリズムの眼差しである。

 インターネットの出現は芸術の制作と展示の間の違いを消去した。

 監視の結果はインターネットを支配する会社によって販売される。

 インターネットは私的に所有されていることを忘れるべきではない。

 作品の背後の作者を探求する古典的な解釈学は、構造主義やクロース・リーディングなどの理論家たちによって批判された。彼らは定義によって到達することのできない存在論的な秘密を探求することは意味がないと考えた。

 そしてインターネット企業によって接収される剰余価値は解釈学的な価値なのである。つまり主体はインターネット上で何かを行い生産するのみならず、特定の関心、欲望、ニーズを持った人間として自分自身を明るみにだす。

 今や一見したところ、この永遠の可視化は芸術家にとっては否定すべきよりも肯定すべきものであるように思われる。

 芸術を制作する過程のドキュメンテーションがすでに芸術作品である。

 われわれは他者の眼差しの中に、われわれがその戦いに負けたこと、われわれが社会によって決められたアイデンティティの囚人のままであることを見て取る。

 創造的な仕事は、公的なコントロールを超えた場所で、あるいは作者の意識のコントロールすら超えて行われるからこそ創造的なのである。この不在の期間は数日、数ヶ月、数年、もしくは生涯にわたって続くことがある。その終わりになって初めて作者は作品を公開することが期待される。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳