mitsuhiro yamagiwa

2022-08-31

非〈一〉性

テーマ:notebook

機械への生成変化としてのポスト

 横断性によって現勢化される倫理は、関係や相互依存性の優先にもとづいており、非-人間的ないし没-人称的な〈生〉を重んじる。これが、わたしがポストヒューマンの政治と呼ぶものである。

非〈一〉の原理としての差異

 〈人間なるもの〉をその自然化された他者から切り離すカテゴリー区分がずらされ、何が「人間なるもの」の基本的な参照単位を構成するのかをめぐるヒューマニズム的前提に混乱をもたらしているのである。第三に、この人間中心主義的な過程は、絶滅の恐怖に束縛された危惧種としての人間というネガティヴなカテゴリーを生み出している。これはまた、非-人間的な他者にヒューマニズム的な価値と権利を代償として拡張するというかたちをとった、人間と他の種のあいだの新たな統合を強いている。第四に、同じ体系が、排除と搾取と抑圧というおなじみのパターンを永続化させている。ポストヒューマン的な主体の位置がもつ利点は、古典的な差異化の軸線をまたぐ関係性と横断的な相互連結に依拠している。

 グローバル経済がもたらす日和見主義的なポスト人間中心主義の効果は、「余剰としての〈生〉」や人間が共有する脆弱性という観念を導入し、それによって、ネガティヴなコスモポリタリズム、あるいは反動的に汎人間的な絆が結ばれるという感覚を生み出しているのである。

 わたしたちはまた、規律社会からコントロール社会へ、パノプティコンの政治的エコノミーから支配の情報工学へと移行してきた。しかしながら、差異および権力の不均衡は、かつてと変わらず中心的な問いでもありつづけている。

 非単一的な主体を構成する非〈一〉性という、ひとを謙虚にするこの経験は、主体を他性への倫理的紐帯のなかにつなぎとめる。ここでいう他性とは、わたしたちが惰性や習慣から「自己」と呼んでいる存在物を構成する、多数的で外在的な他者たちのことである。

 はじめに、つねにすでに関係がある。それは、知性をもつ肉体と身体化した心を与えられた情動的で相互作用する存在物との関係、すなわち存在論的な関係性なのだ。ポストヒューマン的な諸差異にかかわる唯物論的政治学は、現勢化を求める潜在的な生成変化によって作動する。潜勢的な生成変化は、集団によって共有され共同体を基盤とするプラクシスを通じて具現化する。

 この行方不明者たちこそが「わたしたち」なるものであり、それは、新たな汎人間生成をポスト人間中心主義的に創造することによって喚起され現勢化されるのだ。この「わたしたち」は、ポストヒューマンへの生成変化のアフォーマティヴで倫理的な次元を、集合的な自己様式化の身振りとして表現している。この「わたしたち」が現勢化させる共同体は、共有された脆弱性、原初の共同的な暴力という罪、あるいは存在論的な負債を返済できないメランコリアといったものによってネガティヴに結びつけられているのではない。その共同体は、多数的な他者たちーー人新世の時代において、そのほとんどは端的にいって擬人主義的なものではないーーとの相互依存を、共感をもって承認することにより結びつけられているのだ。

結論

 ポストヒューマンというものは、実際に人間性の終わりを意味しているわけではない。そうではなくて、ポストヒューマンは、人間なるものについてのある一定の考えかたに終わりを告げるものである。

 ポストヒューマンは、パターン/ランダムネスの弁証法的内部に位置づけられ、脱身体化された情報ではなく身体化された現実性に基礎づけられることで、人間と知能をもった機械の分節化を考えなおすための材料を提供する。Hayles, 1999:286

 ドゥルーズとガタリが教えてくれるように、思考することとは、新しい概念や新しい生産的な倫理的関係を発明することである。この観点からすると、理論とはある種、支配的な諸価値から組織的に疎遠になることである。

 今日の理論とは、何を人間とみなすのかをめぐる基本的な参照単位がこれまでになく変化と変容を被っている状況と取り組むことにほかならない。

『ポストヒューマン―新しい文学に向けて』ロージ・ブライドッティ/著、門林岳史/監、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作/共訳より抜粋し流用。