mitsuhiro yamagiwa

2022-08-29

脱同一化

テーマ:notebook

第ニ章 ポスト人間中心主義ーー種を越える生

 都市の文明化されたうわべはアイデンティティを束縛し、効率的な社会の相互作用を可能にしているのだが、このうなりはその反対側に存在している。 「一元論的宇宙」とは、スピノザの中心概念を指すもので、物質や世界や人間たちは二元論的な存在物ではなく、内的なものであれ外的なものであれ何らかの対立原理にしたがって構造化されてはいないということである。

 わたしの考えでは、一元論、すなわち、生ける物質すべての合一は、ポスト人間中心主義と直接的な関連があり、このことが現代の主体性にとっての一般的な準拠枠になっているのである。

地球警報

 グローバル経済は、市場の要請のもと全ての種を究極的にはひとつにしようとし、それが行きすぎているがゆえにこの惑星全体の持続可能性を脅かしてしまうという点において、ポスト人間中心主義的である。かくしてネガティヴなたぐいのコスモポリタンな相互連結が、脆弱性が汎人間的な絆となることを介して成立することになる。

 すなわち、「人間という物質が変異可能であることを表現する生化学的な様式においては、種としての統一性は失われてしまう」というのだ。

 生気的唯物論の一部として、ポストヒューマン理論は、人間中心主義の傲慢や、超越論的カテゴリーとしての〈人間なるもの〉という「例外主義」に異議を唱える。そのかわりポストヒューマン理論は、ゾーエー、すなわち非-人間的な諸側面における生命の生産的で内在的な力と手を組むのである。そのためには、批判的に考えること、それどころかそもそも考えることとはどういう意味なのかについて、わたしたちの共有する理解が変異することが必要になる。

 動物への生成変化という変容の軸は、人間中心主義の放棄とともに、種を横断する連帯の認識を含意しており、その基盤は、わたしたちが環境のなかにいること、すなわち、身体をもち状況に埋め込まれ、他の種と共生しているということである。惑星的な次元、あるいは地球への生成変化という次元は、環境および社会の持続可能性の問題を前面化し、エコロジーや気候変動の問題を特に強調する。

 つまり、生気論を標榜する「物質-実在論」を、倫理的な価値の体系にとっての土台として適用することが必要なのである。

動物への生成変化としてのポストヒューマン

 ポスト人間主義は、種のヒエラルキーという観念、そして唯一「人間」が万物の尺度であるという観念を追放する。

 人文主義の主体は、その主権者としての立場を保持するために内在的に矛盾を含んだ要求をしている。彼は、抽象的な普遍者であると同時に、まさしく選ばれし種の代弁者、すなわち〈人間なるもの〉とアントロポスの両方なのだ。この論理的に不可能な要求の背後には政治的な解剖学が想定されており、それによれば、「理性の力」に対応するのは「理性的な動物」としての〈人間〉という観念なのだという。

 人間と動物のあいだのこの親密でエディプス的で、それゆえに両義的で操作的な関係性は、わたしたちの精神的および文化的慣習のなかに根づいたさまざまな方法において表れている。その第一のものが隠喩化である。

 犬は自然と文化の混合物としてーー科学技術の他の産物にも似てーー、重要な他者であるとはいえ、徹底した他者なのだ。犬はほとんど人間と同じくらい社会的に構成されている。

 機械時代以前から、そして機械時代を通してずっと、動物は人間にとっての天然の奴隷であり、輸送を支える重労働のために搾取されてきたのである。

 動物は、科学実験のために、そして、バイオテクノロジー農業、美容産業、薬物や製薬産業などの経済部門のために、生きた素材を提供しているのだ。

 あるひとのポストヒューマンとの関係にまずもって影響を与えるのは、人間なるものについてそのひとがくだす批判的な評定である。

 動物たちはダブルバインドに囚われている。一方では、かつてない非人道な搾取の対象であり、他方では、その償いとしての人間化が何らかのかたちで残存していることから利益を得ているのである。

代償的ヒューマニズム

 人間と他の種とのあいだに生気的な絆を築くくとは、必要かつ結構なことではある。〔だが、〕この絆は、共有された脆弱性の結果であり、その脆弱性自体、人間が環境に及ぼした行動の帰結であるという点においては、ネガティヴなものである。だとすると、人間が、未来について自分が抱える根源的不安定を非-人間へと押し広げてきたというのが実際のところではないだろうか。したがって、非-人間的な動物を人間化することには、大きなつけがまわってくるのかもしれない。

 しかしながら、わたしの見解では、ポストヒューマン的な関係性の要点とは、人間/動物の相互関係を、各々のアイデンティティを構成するものとみなすことである。それは、可変性のある共生関係であり、そうした関係のなかでそれぞれの「本性」がハイブリッド化し変質するとともに、相互作用の中間の場が前景化するのである。これこそが、人間/非-人間の連続体の「中間環境」である。 ポストヒューマンへの生成変化がわたしのフェミニスト的自己に訴えかける理由のひとつは、歴史的にいってわたしの性別が完全な人間性に成り遂げることができなかったからである。それゆえ、人間性というカテゴリーへのわたしの忠誠心は、せいぜい交渉可能な程度であり、けっして当然のものではないのだ。

地球への生成変化としてのポストヒューマン

 わたしにとっての出発点は相変わらず自然-文化連続体であるが、そろそろ、わたしたちは皆「自然の一部である」というロイドの言葉にあるような一元論的な洞察をこの枠組みに組み入れなければならない。

 わたしたちがそのただなかにいる自然-文化連続体が、実は技術的に媒介され地球規模で強化されているという事実があるからである。このことが意味するのは、わたしたちは自然主義的基礎づけ主義を自明視する主体性の理論を前提とすることができないし、社会構築主義的な主体の理論に依拠することもできないということである。

 人間、わたしたちの遺伝的な隣人たち動物たち、そして総体としての地球、これらを包括する横断的な存在物として主体なるものを視覚化することが、しかもそれを理解可能な言語の枠内でなすことが必要とされているのだ。

 わたしたちは、技術的人工物に対する関係を、かつて自然がそうであったのと同じくらい密接なものとして概念化しなおすことも必要としている。技術的装置はわたしたちの新たな「中間環境」であり、この密接性は、義肢的で機械的な拡張という近代性の所産よりもはるかに複雑で生成的である。わたしたちはこうした諸々のパラメーターの変化を通して、場所の政治学の重要性をつねに心に留め、そもそもこれらすべての疑問を提起している「わたしたち」とは正確には誰のことなのか究明しつづけたいとも思う。ポストヒューマン的主体性を考えなおすためのこの新たな図式は、複雑であるとともに豊かなものであるが、それを基礎づけているのは、差し迫った緊急性をもってわたしたちが直面しているような実生活にかかわる世界史的状況なのである。

 現代的な一元論は、前章でみたような生気的で自己組織的な物質という概念、さらにゾーエーないし力動的で生成的な力という非-人間的な〈生〉の定義を含意している。それは「心の身体化と身体の脳化」をめぐるものなのである。

カオスとは混沌としたものではなく、むしろ、すべての潜勢的な諸力の無限の広がりを含んでいる。

 実のところ、わたしたちは地球上への生成変化のただなかにいるのである。

 より豊かな国々とより貧しい国々の二酸化炭素排出量の違いを考えるならば、気候変動危機のことを共通の「人間的」関心として語ることは本当に公正なのだろうか、と。

 人間性のネガティヴな編成を、他の点での、あらゆる差異にもかかわらずすべての人類にわたるカテゴリーとして構築することは、容認するには危うくないだろうか。

 差異についての問いによって、わたしたちは、権力に、場所の政治学に、そして倫理的・政治的な主体性理論の必要性に連れ戻される。

 批評理論家たちに必要なのは、先進資本主義の倒錯した物質性と偏向した流動性とによって引き起こされる差異の中性化に対して、厳格で首尾一貫した抵抗を唱えることなのだ、と。

 (人間〉を特権化してきたヒエラルキー的関係から離脱するポスト人間中心主義的な転換のためには、主体の側がある種疎遠になり、徹底的に再配置されることが必要なのである。これを成し遂げる最善の方法は、支配的な主体観を脱親和化〔=異化〕する、あるいはそこから批判的な距離をとるという戦略である。脱同一化は、別の創造的な選択肢のための道を敷くために、なじみのある思考と表象の習慣を失うことを必要とする。ドゥルーズならこれを能動的な「脱領土化」と呼ぶだろう。

『ポストヒューマン―新しい文学に向けて』ロージ・ブライドッティ/著、門林岳史/監、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作/共訳より抜粋し流用。