第三章 拒絶の構造
バートルビーの返答は「言葉のなかからある種の異質な言語をとりだして、全体を沈黙に対峙させ、全体が沈黙のなかに倒れ込むよう仕向けている」ということだ。
私たちはみなアルゴリズムになりかねないということだ。
いかに自制が、世に普及する法や習慣を超え、それらに対抗する手立てとしての自分独自の「法」と分かちがたく結びついているかということが理解できる。だが、集団的拒絶がうまく行けば、人びとがたがいに連携することで拒絶の空間を保持できる。
個人のレベルで「集中する」だとか「注意を払う]ということが何を意味するのか考えると、それは「連携」ではないだろうか。心だけでなく身体をあわせてべつの部位どうしが連携して動き、同じ目標を目指すということだ。ある一点に注意を向ければ、ほかに気がそれるのを拒絶することになる。
商業目的のソーシャル・ネットワークが幅を利かせる状況にあっても、バートルビーの返答が示すように、真の拒絶とは質問の前提条件そのものの拒絶なのだということを忘れてはならない。
余白が縮小しつつあるこのご時世、学生のみならず誰もが「アクセル全開」で頑張らなけばならず、抵抗する余裕など残っていないという状況にあって、注意というのは私たちが唯一取り下げることのできる、最後の切り札なのかもしれないということがある。
ジョナサン・クレーリーは、睡眠とは、資本主義が占有できない人間らしさの最後の砦だと指摘している。
わずかな隙間が小さな空間になり、そしてその小さな空間がやがて大空間へと広がることだってある。もしあなたが別種の注意をむけることができるのなら、そうすべきなのだ。
注意のコントロールの回復は、新たな世界と、そのなかで活動する新たな方法を見つけるということも意味しうる。
『何もしない 』ジェニー・オデル/著、竹内要江/訳より抜粋し流用。