mitsuhiro yamagiwa

2022-05-17

奇妙な現実、現象

テーマ:notebook

第四章 注意を向ける練習

 ホックニーの被写体は認識できても、そこに連続性はない。その意味で、ホックニーがカメラの利用を試みたのは、ある特定の要素を一瞬のなかで静止したものとして枠に納めるという旧来の写真観を根底から覆えす狙いがあったといえる。もっと具体的にいえば、ホックニーは見ることの現象学を追求していたのだ。

「世界というのは遠い場所から眺めるものではない。私たちはそのなかにいるのであって、そのように実感している」からだ。

現実のなかからのぞくのではなく、現実そのものに目を向けると、現実がどこまでも奇妙に見えるということと関連している。

(ニューマンの新たな)絵画はそれじたいが対象になっている。絵が表象するのは、絵ではない何かだ。絵画は絵画そのもの表象する。

 はからずも、これは注意が私たちを自己の外へと導くもうひとつの方法を示している。リアルになるのは私たちが対峙する対象だけではない。私たちの注意そのものも浮き彫りになる。つまり、自分自身を窓ではなく「壁」に向かって投げつけることによっても、自分が何かを見ているということがわかりはじめるのだ。

 これらの絵画を通して私は注意や注意の持続時間への理解を深め、ものの味方やどれぐらい長く眺めたかによって、見える世界が変わるということを知った。

 見る者に、慣れ親しんだ世界とは異なる規模と速度で知覚することを促す芸術作品は、注意を維持する方法だけでなく、異なる領域内で注意を自在に操る方法を教えてくれる。見ようとするものしか目に入らないというのは当然だが、意識にのぼらない情報も脳に到達しているという考え方は、ずっとそこにあったものが突然見えるようになる、奇妙な現象を説明してくれるのではないだろうか。

 私の経験は、私が注意を向けると同意したことがらで構成される。私が目を向ける項目だけが、私の心をつくるのだーー選択的な興味がなければ、経験は完全な混沌になるだろう。興味だけが言葉のなかに強勢や強調、光と影、前景もしくは後景となる理解可能な視点をもたらすことができる。

 現実とはつまるところ、そのなかに棲まうことができるものを指すのだ。私たちが注意力を借りて新たな現実を共に描出することができれば、きっとその現実のなかでたがいに出会えるのだろう。

『何もしない 』ジェニー・オデル/著、竹内要江/訳より抜粋し流用。