劇場としての都市にたいするルソーの告発
社交性が余暇の成果なのである。
しかしながら、人々がより相互に行為しあえばしあうほど、人々はお互いに依存するようになる。かくして、私たちがパブリックと呼んできた社交性の形態を、ルソーは相互依存の社会関係と考えた。
……そもそも役に扮して演じることで、俳優は一個人としての自己の存在を減ずるものなのである。
自主性を失うことの重大さは人々が遊んでいることで隠されてしまう。つまり、人々は自分を失うことに快感を経験する。
劇場は自己の喪失を引き起こすものなのだ。
都市における社会関係の複雑さそのものは、人柄を物質的条件から読み取ることを困難にしている。
余暇がある状態では、人々はますますただ接触する喜びのために相互に影響しあうからでる。人々が必要性の制約の外で相互に影響しあうようになればなるほど、人々はますます俳優になる。しかし、それは特別な種類の俳優であるーー
演技とは堕落したものであり、人が外見をもてあそぶことで得ようと欲するものは喝采だけである。
評判の追求が美徳の追及にとって代わるのだ。
公的生活を演ずることで、彼らは本来の美徳との接触を失う。芸術家と大都市が調和し、その結果は道徳の乱れである。
芸術作品は心理学的調査の報告のようなものなのだ。一連の互いに依存する社会関係にはじまる大都市の芸術は、自己の虚構化と様色化を生みだす。
ルソーによる提示と表示の対比の一端
自分を誰と比べることもない。彼のあらゆる可能性は彼自身の内にあるのだ。
俳優が悪いのは、彼なり彼女なりが、侮辱や称賛にたいし敏感になって、善と悪、美徳と悪徳の定義の存在する世界に出入りすることなのである。人々は共同体の価値基準を行動に表すことで他人からの評判を得ようと努力するために、それが何であれ、共同体の価値基準があまりにも重要になっているのである。
小都市についてのルソーの要約
……人々がより模倣的でないために、そこにはより多くの独創的な精神、より多くの創意に富んだ努力、より多くの真に新しいものが見られる。手本になるものがほとんどないので、それぞれがより多くのものを自身自身から引き出し、自分がおこなうすべてのことにより多くの自分を投じている。
ルソーの予言
名声を獲得しようとして、他人に便宜をはかろうとして、あるいは親切にしようとしてでさえ、ポーズをとるときは、各人は結局は自分自身の魂をもたなくなるように思える。
この限界のない自由を人々は個人の体験を象徴化することによって理解しようと望んだのだ。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳