それぞれが自分のなかにひきこもり、ほかの者たちすべての運命にたいして他人であるかのように振る舞う。彼にとっては自分の子供と良き友人たちだけが人類のすべてなのである。
彼は自分自身のなかにだけ、また自分自身のためにだけ存在するのだ。
ーートクヴィル
第一部 公共性の問題
第一章 公的領域
今日、公的な生活はやはり形式的な義務の問題となっている。
私的生活の心理に関する現代のもろもろの考えは混乱している。
各々の自我が、本人の最大の重荷になっている。自分を知ることは世界を知る手段ではなく、目的になってしまっている。そして、かくも自分にとらわれているがゆえに、われわれは私的な原理に到達したり、自らの個性がいかなるものか自分や他人に明確に説明したりすることがきわめて困難なのである。
人々は、非個人的な意味のコードによってのみ適切に扱える公的な事柄を、個人的な感情によって処理しようとしているのである。
表現とは何かに関する何らかの理論なしに公的生活における表現の空虚さについて語るのは難しい。
公的領域外の愛
公の世界は、親密な感情の世界に代わって、人々が自分を注ぎこむことができる、いま一つの対抗する世界なのだ。
ナルシズムとは、「この人物、あの出来事が、私にとって何を意味するか」という強迫観念なのだ。
自己をとりまく境界は自己を孤立させるものではなく、じっさいに他人とのコミュニケーションを促進しうるものである。
常識として、善人が悪い行いをすることをわれわれは承知しているが、この真正さを問題にする考えは、われわれが常識を用いるのを難しくするものだ。
われわれの性衝動は解放されたとはいえ、われわれはピューリタンの世界を規定した自己正当化の範囲内でとどまっている。
ナルシズム的感情は、しばしば私は十分に善良であろうとか、私は十分能力があるだろうとか、その種の取り憑かれたような疑問に集中するものである。社会がこうした感情を動員し、行為のもつ客観的な性質を縮小して行為者の感情の主観的状態の重要さを膨れ上がらせるとき、行為の自己正当化についてのこうした疑問は、「象徴的行為」を経由して、系統的に表面に出てくることになる。いまや公的な関心と私的な関心との間でなされる取捨選択は、自己の正当性についてのこうした取り憑かれたような疑問を動員することで、プロテスタンティズムの倫理のもつもっとも腐食性のつよい要素をふたたび目覚めさせてしまったのである、しかももはや信心深くもなく、また物質的な富が道徳的な資本の一形態であると確信することもない文化において。
さらに誤解を招くのは、それらが治療的な解決を示唆して、人々をこの自己投入から覚まさせればよいとしていることであるーーまるで、人々の社会的意志をむしばんで、欲望を変えてしまった環境が、個人が変わればにわかに両腕を拡げて歓迎するとでもいうかのようである。
死んだ公的空間
公的領域が空虚なものとして捨て去られるのに比例して、個人的なヴィジョンが産みだされるようになる。
公共の空間は通り抜けるためのスペースであって、そこに居るところではない。
みんながお互いを監視しあっていれば、社交は減り、沈黙が唯一の防御の形態になる。
人々は間に何かはっきりわかる障壁があればあるほどますます社交的になるのであり、それはちょうど、人々を集めることだけを唯一の目的とする特別の公共の場所を人々が必要とするのと同じことである。
ーー人間は社交的になるためには他人から親しく観察されることからある距離を必要とする。親密な接触を増せば、社交性は減る。ここに官僚的な能率の一つの形の論理がある。
性的な拘束から自らを解放したのも、内へと向かったのも第二次世界大戦後に生まれた世代である。公的な領域の物理的な破壊の大半がおこったのもこの同じ世代においてなのだ。
それらは旧制度の崩壊と、新しい資本主義の世俗的、都市的文化の形成とともにはじまったひとつの変化が生みだしたものなのである。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳
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