mitsuhiro yamagiwa

2024-03-29

複製の流れ

テーマ:notebook

 創造的な仕事は隔離中の並行する時間に、隔離されて行われる。それゆえ、制作者の時間が鑑賞者の時間と再び同期する時に驚きの効果が生じる。これが、芸術実践者が伝統的に隠れ、不可視になることを望んだ理由である。

 われわれが何らかの秘密を持っていることを否定するとき、そしてそれが見て書き留めるものへとわれわれを矮小化するときに、邪悪な目として経験される。

 芸術実践はしばしば個別的で個人的であると考えられている。

 しかし重要なのは、ある人が他者とは異なっていることではなく、当人が自分自身とは異なっていること、アイデンティティフィケーションの一般的基準にしたがって区別されることを当人が拒絶することである。実際、社会的に定められた名ばかりのわれわれのアイデンティティを定義するパラメーターは、われわれにとっては完全に異質である。

 モダンアートは「真の自己」の探求だった。

 アイデンティティに関する問いとなるのは、社会か私か、誰が私自身のアイデンティティに対して権力を及ぼしているのかという、真実ではなく権力についての問いである。

 それは、アイデンティティフィケーションの支配的なメカニズム、つまりあらゆる区分とヒエラルキーを伴った支配的な社会的分類学に反するからである。これが、近代の芸術家が常に私を見るなと言った理由である。私がしていることを見ろ、それが真の自身である。

 いいかえれば、真の自分自身を探す個人のプロジェクトが政治的な次元を獲得するのである。

 われわれはふたたび美術館のカタログで、名前、生まれた日付と場所、国籍といった、芸術家たちが逃れようとした分類上の印を読む。これは、モダンアートが美術館を破壊することを目指し、国境と管理を超えて循環し始めた理由である。

 ポストモダニティは主体の名義上のアイデンティティに抗して戦うことを諦めなかった。

 ポストモダニティは独自のユートピアを持った。それは無限で匿名の、エネルギー、欲望もしくはシニフィアンの戯れの流れの中へと、主体を自分自身で溶解させるユートピアである。芸術制作を通して真の自己を見つけることで、名義上の社会的自己を消滅させる代わりに、ポストモダンの芸術理論は、再生産の過程を通して完全にアイデンティティをなくすことに希望を託した。

 複製技術によって、ポストモダニズムの芸術はそのアウラを取り除かれている。創造する主体という神話は、既存のイメージをそのまま取りあげ、引用し、抜粋し、積み重ね、競合させる活動に道をゆずることになる。独自性や正当性や現前性といった、美術館の秩序づけられた言説にとって基本的な概念は、葬り去られるのである。

 複製の流れは美術館から溢れ出し、個人のアイデンティティはこの流れのなかで溺れる。

 しかしインターネット上では、思索の行為は痕跡を残す。そしてこれは主体の存在論的自立を最終的に破棄する最後の一撃なのである。ユーザもしくはコンテンツ提供者はインターネットの文脈での人間であり、行為し、「非物質的な」主体ではなく経験的な人物して知覚される。

 アーカイヴはある方法で自分の現代性を生き延びさせ、将来において真の自己を明らかにする望みを主体に与える。なぜならばアーカイヴはその主体の文章と芸術作品を死後も保ちアクセス可能にすることを約束するからである。

 実際アーカイヴは、同時にそして第一に、現在を未来へと移行させる機械である。

 現在の政治の目的は廃れること、そして未来の政治へと場所をゆずることである。

 政治は消滅することによって未来を形作る。芸術は延長された現在によって未来を形作る。それは芸術と政治の間の隔たりを生み出す。

 個別の事象の歴史的な再文脈化よりも、それらの過去からの脱文脈化と再活性化に、より興味が持たれている。

 おそらくアーカイヴとしてのインターネットの最も興味深い側面は、まさに、インターネットがユーザーへと提供するカットアンドペーストの操作を通した、脱文脈化と再文脈化の可能性にある。

 その可能性は、どのような方法で構築されていようと、どのアーカイヴにも継承されてる。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳