人間の言語の理解力が常に論点となるような存在をいかに理解し、また、それらからいかに理解されるのか、ということにはそれ自体のむずかしさがある。
意思疎通は常に、ある程度の交感を巻きこんでいる。つまり、他者との意思疎通は、ハラウェイがこれらの他者と「一緒になること」と呼ぶ手段を伴う。それは存在のありようを広げることを約束するが、ルナの人々がこのように拡張を望みながらも維持しようとする、自己をめぐるとりわけ人間的な感覚に対する大きな脅威ともなりうる。
形式は精神ではないからといって、モノのようなものでもない。人類学にとってもうひとつのむずかしさは、形式が標準的な民族誌的対象である感知できる他者性を欠いているということにある。
つまり、形式は抵抗する仕方によっては規定しえないのである。
思考がそれ自体の意図から自由になるとき、つまり、レヴィ=ストロースの言葉では、私たちが思考に何の見返りも求めないときに、いったい何が起こるのか。
形式を通じて原因を再考することによって、私たちは行為主体性をも再考しなくてはならならくなる。
『森は考える』は根本的には、思考についての書である。ヴィヴェイロス・デ・カストロを引用すれば、人類学を「思考の恒久的な脱植民地化」のための実践にしようという呼びかけなのである。
私たちはもっぱら、人間の言語を構造化する連合の形式についての想定を通じて、諸々の自己と諸々の思考が連合を形成する仕方を想像しているだけである。そのために、たいていは意識されることなく、このような仮説は非人間に投影される。そのことに気づかずに、私たちは自らの特性を非人間に与え、またさらにこのことをこじらせるかのように、非人間に対して、自らの矯正された鏡像をさし出すことを、自己陶酔するように求めるのである。
森は考えるのに良い素材である。なぜなら、森はそれ自体で思考するからである。
私たちが人間的なるものを越えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである。
人間的なるものを人間的なるものを超えたところから見ることは、自明とされるものを単に不安定にするだけではない。この試みは、分析と比較の用語そのものを変えることになる。
人間的なるものを超えたこの範囲は、文脈のような基本的な分析概念だけではなく、ほかにも表象や関係、自己、目的、差異、類似、生命、実在的なるもの、精神、人格、思考、形式、有限性、未来、歴史、原因、行為主体性、階層性、一般性などの概念についての理解を変えることになる。
そのような不在との関係において、私たちはいかに新たな類の〈私たち〉になることができるのか。
すなわち、全ての記号論的過程は、記号が事態の未来の可能な状態を表象するという事実をめぐって組織される。未来は生ある思考を左右する。未来は、あらゆるたぐいの自己の構成的な特徴である。それゆえ、記号の生命は現在だけにではなく、あいまいだが可能な未来にもある。記号は、未来の記号が事態のありうる状態に対する関係をおそらくは表象しているはずの道筋へと方向づけられる。
ある未来が記号の媒体によって現在に影響を及ぼすようになるというこの独特な因果論は、生命ならではのものである。
全ての種類の記号は、現前していないものを何らかのかたちで再=現前する。さらに、あらゆる表象の根元には、もうひとつの不在がある。つまりその表象は、そうなるはずであったものをそれほど正確には表象しなかった全ての記号過程という歴史から生じたものである。そのため、ある存在が記号論的な自己であるということは、それでないものと構成的に関わっている。ある存在の未来は、不在の歴史の特別な幾何学から、またそれとの関係において出現する。生ある未来は、自ら取り巻く死者に常に「借りがある」。
あるレベルにおいて、生命が全てのその過去との否定的であるが構成的な関係において未来を生み出す道筋は、全ての記号過程の特徴である。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳
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