第38節 地の原理あるいは根拠律
かかる主観と客観の無差別は、うち(人間主体)と外(自然対象)の連続性という観点から理解することができ、そこでは内が外に反映されているとともに、その逆も然りである。
テクノロジーが人類化に不可欠であることは疑いないが、文明の発展においてはテクノロジーは宇宙的生命の一部でしかない。テクノロジーは文化と等価ではない。
地は潜在性のシステムである。あるいは潜勢力つまりそれらの経路を切り開く力のシステムである。形式は現働性のシステムである。
地はすべての形式の支持体として機能する。
我意はみずからをあらゆるものより高く上昇させることができ、両原理の統一をもっぱら自分だけで規定しようと意志することができる。この能力こそ悪の才能である。
直観は感性的でも知性的でもない。それは知識される客体となる存在者の生成[devenir]とその主体の生成との間の類比、二つの生成の一致なのである。
少なくともいえるのは、かかる哲学的直観が、実在を表象することにあまり関係なく、むしろまずもって類比的な仕方で作動しているということである。
未知のものをわれわれの目の前にある一杯の水のように何か手許に準備されてわれわれに掴むことのできるものに変えようということではなく、むしろわれわれが継承しわれわれがその内で生活しているところの象徴の世界を通じてわれわれが未知のものに到達できるようにしてくれる存立平面を構築しようということなのである。精神の問いはつねに象徴の問いである。
かかる判断において客体は一つの対象〔Gegenstand〕となり、人間のしかもその視点の面前にみずからを位置づける。根拠律はかくして、ハイデガーを引用すると、次のような意味をもつことになる。「いかなるものも、それが思惟にとって一個の計算可能な対象としてしかしっかりと確立されたとき、そしてそのときのみ、実存するものとして教えられる」。
存在としてのかかる根拠とはいったい何なのか。かかる根拠は何故(warum)の問いに答えるものではあるが、原因(weil)ではなく、期間〔dieweilen)を意味するものなのである。つまり「その間に」ということである。
ハイデガーにとって根拠の中心的な問いは存在の保存なのである。
かかる根拠は無根拠である。つまり原根拠は非根拠ないし脱根拠なのである。それは手許に現前しているものとして手に届いたり掴みことのできたりするようなものではないからである。
第五章 非人間のなごり
テクノロジーが完璧なものに洗練されてゆく過程は、機能不全と破局に大きき依存しているからである。
つまり、失敗と障礙がなければ、いかなる発明もなく、そしておそらく科学もない。
技術システムという組織化する無機的なものたちの時代にわれわれは、どのように未規定性の問いに迫ることができるだろうか。
第39節 ポストモダンと再帰性
複雑性を産出するのは「反復的な作動であり、これは自己発生的な初期状態から継続し、作動のたびにさらなる作動の出発点となる」。
現時点でわれわれにいえるのは、崇高における関心事とは諸能力間の衝突の一つの我有化であるということーー失敗ないし不可能なものの我有化であるということである。
法律ではなく事実が規範を定義するのである。
社会システムは技術システムから分離できるものではない。じつのところ技術システムこそが社会システムを支えており、それはコミュニケーションのみならず組織化の点でもいえることなのである。
「権力の成長と自己正当化は、いまやデータの記憶装置とアクセス可能性そして情報の操作可能性を通じてなされる」。リオタール『ポストモダンの条件』かかるシステムの実現は、リオタールにいわせれば、発展という概念の続きであり、一つの合目的性なき形而上学である。
形而上学に残されているのは、その外部をみずからの内部に取り込み、みずからは支配的な思考として除外するということである。
『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。