mitsuhiro yamagiwa

第40節 技術圏あるいはキリスト発生

 人間は多くの異なるアルゴリズムを寄せ集めたものであり、単一の内なる声とか単一の自己とかいうものはもたない。

 『ホモ・デウス』

第41節 非人間対システム

 システムとしての生成こそが非人間的なものである。というのもそれは発展というものにその形而上学的な根本が支えられているからである。それは人間が一切の存在者の主人になるということである。

 発展は何らかの理念をたとえば理性の解放や人間の自由に執着しない。

「かかる非人間的なものに抵抗すること以外に何が「政治」として残されているといえるのか」。リオタール

 魚は水の中で生きているが、水は魚にとっては透明なままである。かかる非人間的なものは計算や表象には還元できない。

 わたしの中にはわたしよりもわたし自身の内奥であるものがあるのです。

 みずからを欠如して現前させる何ものかがあり、それはすでに満ち足りていると考えられていたものに傷をつける。それはすでに考えられていたものを宙吊りにすることで、なにか新たなものが到来できるようにするからである。中国や日本の書や画が余白を残すように、空虚が満足を成就するのである。

第42節 システム以後の偶然性、あるいは技術多様性

 思考する主体と思考される客体との相関は、思考不可能なものや思弁というものを真の可能性から排除するような主観主義を特権化している。

 偶然性が必要であるのはそれが相関主義の絶対化に疑問を突き付けるからであり、それは事実、脱絶対化に導く。理性はみずからが秩序と無秩序からなる混乱の真只中にいることに気づく。

 絶対的な偶然性は、思考することの限界と思考されないものの限界との両方を含意している。前者は、相関主義に基づくなら思考することには限界があるということである。後者は、思考されないものが唯一みずからを部分的に現前させるのが偶然性としてであるということである。

 偶然性が意味するのは、別様でもありうるし、存在しないこともありうる、ということにほかならない。

 しかし非人間的なものは人間の内にある。人間的なものの概念が変われば、その他者である非人間的なものも変わる。

 二一世紀のテクノロジーは否定的な意味で非人間的になろうとしている。なぜならそれは人間的、あまりに人間的なのである。

 人間の最も非人間的な部分はその感性(あるいはお望みなら直観)なのであり、そして理性ではなく感性こそが道徳の基礎なのである。

 別の再帰的過程、別の認識論を発明すること。 ベイトソン

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。