3 大いなる健康ーーニーチェ
ニーチェによれば健康を表明することは攻撃である。ここには、自由は既存の秩序の否定としてそれ自身を表明するという、ヘーゲルの自由の見解との類比が見られる。
自由はそれ自身を否定する歴史の終わりに自己肯定となる。しかし健康は最初から自己肯定的である。
人間にとって健康とは、それ自体何らの制限も設けていない生活の中での自信の感情だということが、理解される。
健康は、自分を、単に価値の所有者や保持者として感じるだけではなく、必要に応じて価値の創造者や、生命規模の設立者でもあると感じて、存在物に接近していく仕方である。
正常な人間の病気とは、自分自身への生物学的信頼の一つの断層が出現することである。
ここでは「正常」は明らかに健康を意味している。
精神は否定によって作動するが、否定の数は限られている。反対に、生は肯定と反復を通じて作動する。それは同じことの永遠の反復である。
現在と過去が実際に個人化されているのと同じように、未来も個人化されることになる。われわれは誰かによって建設された建物の中に住んでおり、誰かによって発明され作られた機械を用い、誰かによって創作された芸術作品を見る。
健康とは、活動力、生命力、攻撃性を意味する。完璧で最終的な「健康状態」は存在せず、むしろそれ自身を止めることができない永遠の生命力の流れが存在しているがゆえに、「真の健康」には到達しえない。それは、歴史には終わりがないことを意味する。
4 ケアテイカーとしての賢人ーーコジェーヴ
世界に対してわれわれを孤立させ、対立させるのは欲望である。
観想する人間は自己が観想する対象に「呑み込まれ」、「認識主観」は認識される対象の中に自己を「喪失」している。
欲望は人を観想から行為へと向かわせる。この行為は常に「否定」である。欲望の「自我」は「外的に」「与えられたもの」をなんても消費し、否定し、破壊する空虚である。
しかし第一の欲望は自己感情のみを生み出し、また自己意識は生み出さない。自己意識は、特定の事物ではなく他者の欲望への欲望である「人間的欲望」、つまり特定の種類の欲望によって生み出される。
人間的欲望は動物的欲望の否定、つまり否定の否定である。
哲学者は、自分の個人的利害と欲望のための戦いを通じてではなく、社会の組織化と共通の善についての新しい考えを公衆に提供することを通して承認を獲ようとする。
哲学者は観想に耽るのをやめ、創造的で暴力的にならなければならない。
精神と肉体の対立は、機械としての人間と動物としての人間の対立となる。
欲望の抑圧は個人を救い、より長く生きることを助けると主張することもできる。しかし動物としての人間にとっては、長生きすることと生き延びることは最高の価値ではない。
したがって、セルフケアは再びケアのシステムと矛盾し始める。労働者としての人間をケアするが、動物としての人間はケアしないからである。
『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳