mitsuhiro yamagiwa

2023-08-08

習慣についての習慣

テーマ:notebook

創発する実在

 私たちは一般に、実在するものを現存するものとして考える。

 しかし、実在するものを起きた物事ーーそこにある法則と結びついたものーーとして限定的に特徴づけることでは、自然発生性、すなわち成長に向かう生命の傾向を説明できない。またそれは、生きているものによって共有される記号過程ーー生命の世界から創発し、究極目的には私たち人間を基礎づける記号過程ーーも説明できない。

 パースによれば、私たちが意識しうる実在するものには、三つの相がある。もっとも容易に理解される要素はパースが「第二性」と呼んだものである。

 第二性は他性や変化、出来事、抵抗、事実を指示する。第二は「荒々しい」。それは物事がいかなるものであるのかを想像するときの習慣的なやり方の外から私たちに「衝撃を与える」。それは「私たちがこれまで考えてきたこととは別の仕方で考える」ことを私たちに強いる。

 パースの実在論はまた、彼が「第一性」と呼ぶものを包摂する。第一とは「単に諸々のはっきりしない事柄、必然的には実現されないもの」である。

 最後になるが、第三性が、本書の議論にとってもっとも重要なパースの実在論の相である。

 つまり、習慣、規則性、型、未来の可能性、目的ーー彼が第三と呼ぶものーーは、最後に生じる効果を有しており、さらに人間の精神の外にある世界に生じ、表れるようになることもある。世界は「習慣を形成しようとする万物の傾向」によって特徴づけられる。つまり、エントロピーの増加へと向かう宇宙の一般的傾向は、ひとつの習慣である。河川の中の環状の渦や結晶の分子構造の形成のように、自己組織的な過程に見られる規則性の増加へと向かう、より共通性が低い傾向もまた習慣である。そしてこれらの規則性を予知し利用し、その過程において、新奇な規則性の配列を創造するその能力をもって、生命は習慣獲得に向かうこの傾向を増幅する。この傾向は世界を潜在的に予測可能にするものであり、また結局は推論によっている、記号過程としての生命を可能なものとする。なぜなら、規則性の外観さえあれば、世界は表象可能になるからである。記号は習慣についての習慣である。

 一般性、つまり、習慣に向かう傾向は、記号的な精神が世界に押しつける特徴ではない。それはそこにある。世界の中の第三性は記号過程にとっての条件であって、記号過程が世界へと「もたらす」ものではない。

 象徴的なるものは、この惑星のどこにも先例のない程度までに、習慣を生み出す習慣なのである。

 私たちの思考が世界のようなものであるのは、私たちが世界に属するからである。(あらゆるたぐいの)思考は、習慣獲得に向かう世界のうちの傾向から創発し、それと連続し、多くを巻きこんでいる習慣である。

 パースによる特別なたぐいの実在論によって私たちは、人間ならではの知る方法の限界を認識するだけでなく、それを超え出るようにして、世界に関連するものとなりうる人類学を思い描くまでに至ることができる。記号過程の再考は、そのような取り組みの出発点である。

 パニックの周囲にあって大いに心かき乱すものとは、他者と同調できなくなるという情態である。思考を生み出すより広い習慣の領域からますます切り離されるような思考のために、孤独になる。言いかえれば、習慣をつくり出す象徴的思考のたぐいまれなる能力ゆえに、私たちが組みこまれている習慣から私たちを引きずり出しかねない危険が常に存在する。

 しかし生ある精神は、このようにして根から断ち切られることはない。成長し、生きている思考は、たとえその何かが潜在的な未来の結果であったとしても、常に世界の中の何かに関わっている。思考の一般性の一部ーーその第三性ーーは、単一の安定的な自己のうちだけに位置づけられるのではない。むしろ、それは複数の身体にわたって分布する、ひとつの創発する自己の構成要素である。

 ある者はひとりである限りにおいては全体ではない…社会のありうる成員である。とりわけ、孤立しているときには、ひとりの経験とは何ものでもない。もしほかの人が見ることができないものを見るのであれば、それは幻覚と呼ばれる。「私の」経験ではなく、「私たちの」経験こそが、考えなければならない。そして、この「私たち」というものは、無限の可能性を有している。

 この「私たち」が一般である。

 パニックになると、習慣を獲得する私の精神、習慣を獲得する他者たちの精神、および私たちが世界の習慣を見つける経験を共有する能力を結びつけていた三項関係が崩れてしまう。さらに私的になっていく精神をそれ自体、独我論的に包みこむことは、恐るべきことへと帰結する。すなわち自己の内破である。パニック時に自己は残りの世界から切り離されたモナド的な「第一」となる。

 その結果は、要するに、懐疑的なデカルトのコギトである。あらゆる「無限の可能性」を備える、成長し、望まれ、そして創発する「わたしたち」の代わりに、固定された〈私(だけ)が(象徴的に)考える、ゆえに私は存在する(ということは私は疑う)」。

 全ての記号は媒介を含み、また私たちの全ての経験は記号過程によって媒介される。媒介されない身体的、内面的そのほかの経験や思考など存在しない。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳