第3章 アート・アクティヴィズムについて
アート・アクティヴィストは単に芸術のシステムや、その下でアートのシステムが機能する一般的な政治的社会的状況を批判することだけを求めている。アートのシステムの内側よりもむしろその外側を、つまり現実そのものの状況を変えることを求めている。アート・アクティヴィストは経済的には発展途上の地域での生活状況を変えようと試み、エコロジーへの関心を高めようとし、貧しい国や地域の住人に文化や教育へのアクセスを提供しようとし、不法移民窮地に対して注意を惹こうとし、芸術機関で働く人々の状況を向上させようとする。いいかえれば、アート・アクティヴィストは増大する近代社会の状況の崩壊に反応し、様々な理由で役割を果たすことができない、あるいは果たそうとしない社会機関やNGOに取って代わろうとする。
そしてこれが、理論的、政治的そして純粋に実践的な問題が生じる点なのである。
伝達的な美術批評は芸術的価値の概念を扱う。この観点ではアート・アクティヴィズムは芸術的に不十分だとみなされる。
ヴォルター・ベンヤミンとギー・ドゥボールの著作にそのルーツを持つ特定の知的伝統によれば、政治的抵抗を含む政治の美学化とスペクタクル化は、政治的抵抗の実践的な目的からその美的な形式へと注意をそらしてしまうため悪いものである。そしてそれは、アートは真に政治的抵抗の手段としては使うことができないことを意味している。なぜならば、政治的行動のためにアートを用いることは必然的にこの行動を美学化し、行動をスペクタクルに変え、そのようにして行動の実際の効果を中立的なものにしてしまうからだ。
この混乱した状況の理由は現代美術の実践そのものが二つの異なった領域に分かれていること、つまりこの語の適切な意味でのアートと、デザインに分かれていることに由来する。これら二つの領域では「美学化」は二つの異なった対立するものを意味する。
革命としての美学化
芸術的な美学化は道具の非機能化、道具の実践への適用可能性と有効性を暴力的に無効にすることを意味する。
フランス革命以前に芸術はなくデザインだけがあった。フランス革命後、芸術はデザインの死として現れた。
美学の革命的起源は、『判断力批判』の中でイマヌエル・カントによって概念化された。
私は、美学化は伝統的な偶像破壊よりもはるかに過激な死の形式であるということを主張したい。
美術館は、過去を救いがたく死んだものとして明示する、真に根源的で無神論的で革命的な暴力を制度化する。
それは戻ることのない純粋に物質的な死であり、美化された物質的な死骸は復活の不可能性の証明として機能する。
もしレーニンが埋葬される予定だったならば再び可能になるであろうレーニン主義の復活を、リーダーたちは望んでいないのだ。
芸術の文脈では、現代のものを美学化することは、それらの非機能的で、不条理で機能しないという性質を見出すこと、それらを使えなくし、役立たずで時代遅れにするあらゆるものを見出すことを意味する。現在のものを美学化することは、それを死んだ過去のものに変えることを意味する。いいかえれば、芸術的な美学化はデザインによる美学化とは逆なのである。デザインのゴールは現状を受け入れるが、美学的に向上させることであり、それをより魅力的にすることである。芸術はまた受け入れるが、その単なる表象への変容を遂げることによって死骸として受け入れる。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳