45 〈労働する動物〉の勝利
「世俗的」という言葉が一般的に使われた場合なにを意味しているにせよ、歴史的にはそれは世界性と同じものではありえない。
彼らはただ、生命に投げ返され、内省の閉鎖的な内部志向性の中に投げ入れられたのである。内省において近代人が経験できた最高のものは精神が計算する空虚な過程であり、精神が精神を相手にする戯れであった。
社会勃興の中で自己主張したのは究極的には種の生命であった。
社会化された人類というのは、ただ一つの利害だけが支配するような社会状態のことであり、この利害の主体は階級かヒトであって、一人の人間でもなければ多数の人びとでもない。
(「思考過程そのものが自然過程である」)。この力の唯一の目的はーー目的がともかくあるとしてーー動物の種としての人間の生存であった。
完全に無意味なものとなった経験は、観照だけではないし、それが第一のものでさえない。たとえば、思考は、「結果を計算に入れる」ものになっとき、頭脳の一機能となった。
たしかに近代は人間の活動力の先例のない、将来を約束するような爆発をもって始まった。しかしその近代は、歴史上最も不活発で、最も不毛な受身の状態のままで終わるかもしれない。それは十分考えられることである。
しかし、もう一つ、もっと重大で危険な兆候がある。それは、人間がダーウィン以来、自分たちの祖先だと想像しているような動物主張に自ら進んで退化しようとし、そして実際にそうなりかかっているということである。
無限に小さな分子の行動パターンが、私たちに見えるままの太陽系に類似しているのみならず、人間社会における生命と行動のパターンに似ている理由はなんであろうか。それはもちろん、あたかも私たちが、自分自身の人間存在から遠く離れてしまったかのように、この社会で眺めて生きているからである。それは、ちょうど私たちが無限に小さなものと無限に大きなものから遠くへだてているのと同じである。この無限に小さなものと無限に大きなものは、なるほど最も精巧な器具によって知覚することはできる。しかし、それは、それを経験するには私たちからあまりにも離れすぎているのである。
科学者はこれまで一般に社会の中でもっとも非実際的で非政治的な人びとであると考えられてきた。しかし、結局のところ、このような人びとこそ、活動の仕方を知り、とくに協調して活動する仕方を知っている残された唯一の人びとであるというのは、皮肉といえないこともない。
しかし、科学者たちの活動は、宇宙の立場から自然の中へと活動するものであり、人間関係の網の目の中へと活動するものではない以上、活動の暴露的性格を欠いており、さらに物語を生みだして、それを歴史とする能力をも欠いている。本来これらの性格や能力こそ、人間存在に意味を与え、それを照らす源泉そのものを形成するのである。この実存的に最も重要な側面においても、活動は特権的な少数者の経験となっている。
生きた経験としての思考は、これまでずっと、ただ少数者にのみ知られている経験てあると考えられてきた。しかし、これはおそらくまちがいだろう。
活動的であることの経験だけが、また純粋な活動力の尺度だけが〈活動的生活〉内部のさまざまな活動力に用いられるものであるとするならば、思考は当然それらの活動力よりもすぐれているであろう。
「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」。
原注
現世の物にたいする人間の支配力の増大は、人間が自分と世界の間におく距離、すなわち世界疎外から生じているのである。
つまり繁栄は破壊手段の生産と結びついており、また、破壊のために使い切るかーーこちらの方がもっと一般的だがーーすぐ陳腐化するために棄ててしまうか、いずれにしても浪費するために生産される財の「無益な」生産と密接に結びついているというのがそれである。
「現代自然科学の状況から出発して、運動の中に投げ入れられている基盤をつかもうとするならば、歴史の流れの中ではじめてこの地上の人間はただ自分自身にのみ立ち向かい……われわれはいわば常にわれわれ自身とのみ向かい合っている……という印象を受ける」(Das Naturbuild der heuligen Physik[1955])
ハイゼルベルクの主張の要点は、観察される対象が観察する主体から独立して存在しないということである。「観察の方法によって、自然の性格がどのように決定されるか、また、われわれに観察によってわれわれはどれを消し去るかが決定されるだろう」(Wandlungen in den Grundlagen der Natur-wissenschaft)
組織というものは常に政治的である。組織する場合、人びとは活動しようとし権力を得ようとするからである。
「現実には白も黒も、苦いも甘いもない」
「哀れな精神よ、お前は自分の主張を感覚から受け取り、それから感覚を負かそうとするのか?お前の勝利はお前の敗北なのだ」。
デモクリトス「真理のこの二つの原理、理性と感覚は、それぞれ真面目さを欠く以上に、お互い同士だまし合う。感覚は理性をその偽りの外観で欺く。感覚が理性に行なうこの同じ欺瞞を今度は、感覚が理性から受ける。つまり理性は感覚に復讐するのである。魂の情熱は感覚を困惑させ、偽りの印象を与える。それらは競って欺きまちがう」パスカル
デカルトにおける共通感覚の欠如について最初に注釈をつけ批判したのはヴイーゴであった。
エルヴィン・シュレーディンガーの言葉によれば、「われわれの知能の眼がますます小さな距離、ますます短い時間を浸透してゆくにつれて、自然が、普通われわれが自分の周囲の眼に見え触知できる物体で観察するのとまったく違ったふうに行動しているのがあきらかになるので、われわれの大規模な経験にしたがって作られたモデルはどれも『真実』ではありえない」(Science and Humanism[1952])。
「自然は過程である」ということ、したがって「感覚意識にとって最終的事実は出来事である」ということ、自然科学が扱うのはただ発生事、偶発言、出来事であって物ではないということ、「偶発事以外になにもない」ということ(Whitehead, The Concept of Nature)
ニーチェとベルクソンは活動を製作の観点からーーhomo sapiensではなくhomo faberの観点からーー描いている。ちょうどマルクスが活動を製作の観点から考え、労働を仕事の観点から描いているように。しかし彼らの究極的な引証点は仕事や世界的性ではなく、活動でもない。それは生命であり、生命の繁殖力である。
芸術家に固有のこの世界性は、もちろん「非客体芸術」が物の表出に取って代わっても変わらない。この「非客体芸術」を、芸術家が「自分自身を表現する」のに訴えたと考えている主観性、つまり芸術家の主観的感覚と取り違えるのは、知ったかぶりの人の印であって、芸術家の印ではない。画家であれ建築家であれ、詩人であれ音楽家であれ、芸術家は世界の対象物を生みだすのであって、その物化は、極めて疑問の多い、そしていずれにせよまったく非芸術的な表現の仕方となんの関係もない。用語上矛盾しているのは抽象芸術ではなく、表現派芸術である。
『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。