mitsuhiro yamagiwa

2023-01-22

行為と観照の転倒

テーマ:notebook

43 〈工作人〉の敗北と幸福の原理

 問題はすべて解決することができ、人間の動機はすべて有用性の原理に還元することができるという信条。与えられた一切のものを材料と見なし、自然全体を「織り直すために好きなだけ切り取ることのできる無限の織地」と支えられる支配的態度。知性とは創意工夫のことであると見る態度。いいかえれば「工作物の製作、とくに道具を作る道具の製作、また、製作を無限に多様化させる道具の製作……これらの製作の第一歩」とは考えられないようなすべての思考にたいする軽蔑。そして最後に、製作と活動とは当然同じものであるとみなす態度。自然科学の場合、純粋に理論的な努力は、「単なる無秩序」、「自然の生のままの多様性」から秩序を創造しようとする欲求から生じるものと考えられている。

 〈工作人〉にかんする限り、近代になって重点が「なに」から「いかに」へと移り、物自体から製作過程へと移動したことは、この上ない仕合わせというわけにはいかなかった。

 交換価値が使用価値にたいして決定的に勝利を収めると、最初は、あらゆる価値の相互互換性の原理が、次いで、価値の相対化が、最後に価値の無価値が持ち込まれた。それを持ち込んだのは、商業社会の発展だけではないし、おそらく、それが第一のものでさえない。

 近代の世界疎外のために、また、内省が自然を征服する万能の方法として取り上げられたために、なによりもまず世界の建設と世界の物の生産に向けられている能力ほど、守勢に立たされた能力はほかになかった。

 〈工作人〉の世界観の本質である有用性の原理に欠陥のあることがすぐ発見され、そこで、「最大多数の最大幸福」の原理がそれにただちに取って代わったが、おそらくこのときのすばやさほど、〈工作人〉が自己主張に完敗したことを明白に示すものはほかにあるまい。

 このような文脈の中で効用の原理をともかく維持しようとするなら、それをなによりもまず使用対象物や使用に結びつけることはできず、むしろ生産過剰に結びつけることになる。というのは今や生産性を刺激するのを助け、苦痛や努力を和らげるものが有用性だからである。いいかえると、尺度の最終的標準は、もはや効用や使用ではまったくなく、「幸福」であり、物の生産や消費の中で経験される苦痛と快楽の総計である。

「幸福」とは、快楽の総計から苦痛を差し引いたものである。ベンサム

 これは、それ自身の活緑力を意識しているデカルト的意識と同じように、感覚作用を感じとり、世界の対象物と無関係のままでいる内部感覚である。その上ベンサムは、万人が共有しているものは、世界ではなく、計算の同一性や苦痛と快楽を受ける場合の同一性に現われる人間本性の同一性であるという過程を基本にしている。

 「なぜ〔あるひとが〕健康を欲するのか調べてみるなら、その人はすぐに、病気が苦痛だからと答えるだろう。しかし、さらに調査を進めて、なぜその人が苦痛を嫌うのか、その理由を知ろうとしても、彼はけっして答えることができない。これが究極的目的であって、その他の対象と無関係だからである」。

 苦痛だけが他の対象から完全に独立しており、苦痛にある人だけが本当にただ自分だけを感じるからである。快楽とは、それ自身を楽しむものではなく、それ以外のなにかを楽しむものである。ところが苦痛は内省によって発見された唯一の内部感覚であって、経験される対象と無関係であるという点では、論理的で算術的な自明の確かさに匹敵する。

 古代の場合、加えられるかもしれない苦痛を避けるために人間を自分自身の内部に追いやったのは、世界であった。

 古代人は、自分が幸福であることを確信するために、想像力や記憶に頼った。自分が苦痛から解放されていると想像したり、鋭い苦痛が続くときには、過去の快楽を呼び覚ましたりしたのである。

 結局のところ、一切のものが関連づけられている最高の標準は、常に生命そのものである。そして、個人の利益とは個体の生命のことであり、人類の利益とは種の生命のことであるとして、常に利益と生命が同一視される。

 内省がまったく中味のない自己意識以上のものを生みだすことができるとすれば、それが生みだす唯一の触知できる対象物は、実際、生物学的過程である。そして自己観察によって認められるこの生物学的生命が同時に人間と自然との新陳代謝の過程である以上、あたかも、内省はもはやリアリティのない意識の迷路で途方にくれる必要はなく、人間の中にーー人間の精神の中ではなく、人間の肉体過程の中にーー人間をふたたび外部世界と結びつける外部の物質を見つけたかのようである。主体と客体との分裂は、人間の意識に固有であり、思惟するものとしての人間と延長するものとしての外部世界とのデカルト的対立においては、回復不能である。しかしこの分裂は、外部の物質と合体し、それを消費することによって生存を続ける生きた有機体の場合には、完全に消滅する。唯物論の一九世紀的変種である自然主義は、デカルト哲学の問題を解決し、同時に哲学と科学の間で絶えず広がってゆく裂け目に橋をかける方法を、生命の中に発見したように思われた。

44 最高善としての生命

 〈活動的生活〉の勃興と共に、人間能力の最高位に昇格することになったのが、ほかならぬ労働の活動力になったのはなぜか。

 さまざまな多様な人間の条件の中で、他の考慮を一切無視したのが、ほかならぬ生命であったのはなぜか。

 近代の究極的な議論の根拠として生命が自己主張し、これまでずっと近代社会の最高善に留まってきた理由は、近代の転倒が、キリスト教社会の構造の内部で行われたためである。

 それまで政治の活動力は、最大の原動力を世界の不死にたいする熱望から引き出していた。しかし今や政治は、必要に従属する活動力という低い次元に沈み、一方では人間の罪深さから生じる結果を改め、他方では地上の生命の正当な欲求や利益を満たすためのものになり下がった。

 世界が人間に与えることのできるような名声は幻想であった。世界は人間より滅びやすいからであった。

 もっと後のキリスト教哲学、とくにトマス・アクィナスになると、労働は生きてゆくために他の手段をもたない人びとの義務となった。

 しかしこの義務というのは、自分の生命を維持することであって、労働することそのものではなかった。だから乞食になっても自分を養うことができれば、その方がよかったのである。

 たとえばトマスはこの点でためらうことなく聖書よりはアリストテレスに従って、「肉体労働を強制するのはただ生存する必要だけである」と主張している。彼にとって労働とは、人類の生存を維持する自然な方法にすぎなかった。

 たしかにキリス教は生命の神聖さと生き続ける義務を頑固に主張した。しかしそれにもかかわらず、積極的な労働哲学を発展させなかったのは、あらゆる種類の人間的活動力を超えて〈観照的生活〉が文句なく優位に立っていたからである。

 近代精神に満ちた思想家たちが、どれほどはっきりと、またどれほど意識的に、伝統を攻撃したにせよ、生命は一切のものに優越するという観念は、すでに彼らにとって「自明の真理」の地位にあった。

 キリスト教信仰が崩れたのは、むしろ本当に宗教的な人びとが救済にたいして懐疑的な態度をとったためであった。

 いずれにせよ私たちが確実にいえる唯一のことは、キリスト教による生命と世界の転倒が、その後に起こった行為と観照の転倒と重ね合わされたとき、それが近代の発展全体の出発点となったということである。〈活動的生活〉は、〈観照的生活〉という原理を失ったときになってはじめて、まったく文字通り活動的生活となった。そしてこの活動的生活がその唯一の原理として生命に結びつけられていたからこそ、生命そのもの、つまり人間が労働を通じて行なう自然との新陳代謝が、活動的となり、生命の繁殖力を完全に解放することができたのであった。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。