第一編 死にいたる病とは絶望のことである
自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との総合、要するに、ひとつの総合なのである。総合というのは、ふたつのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない。
ふたつのもののあいだの関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。
精神活動という規定のもとでは、心と肉体とのあいだの関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。
すなわち自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それともある他者によって措定されてあるのであるか、そのいずれかでなければならない。
このような派生的な、措定された関係が人間の自己なのであって、それはそれ自身に関係する関係であるとともに、それ自身に関係することにおいて他者に関係するような関係である。
もし人間の自己が自分で自己自身を措定したのであれば、その場合には、自己自身であろうと欲しない、自己自身からのがれ出ようと欲する、というただひとつの絶望の形式しか問題とはなりえず、絶望して自己自身であろうと欲するという形式でのものは、問題とはなりえないであろう。
B 絶望の可能性と現実性
絶望は長所であろうか、それとも短所であろうか?まったく弁証法的に、絶望はその両方である。
なぜかというに、この長所は、人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さをさし示すものだからである。
すなわち、現にそうあるということは、そうありうるということにたいして、上昇というふうな関係にある。これに反して、絶望の場合には現にそうあるということは、そうありうるということにたいして、下降というふうな関係にある。
可能性の長所が無限であるように、下降もまた同じように無限に底深いのである。
絶望するということは、人間自身のうちにひそむことなのである。
絶望はどこからくるのか?総合がそれ自身に関係する関係からくるのである。
そして、その関係が精神であり自己であるというところに、そこに責任があるのであって、あらやる絶望はこの責任のもとにあり、絶望のあるかぎりそのあらゆる瞬間にこの責任のもとにある、たとえ絶望者が、勘違いをして、自分の絶望を、さきに述べた眩暈の発作〔この眩暈と絶望とは、質的に違ったものであるけれども、共通するところも多い。そのわけは、眩暈が心の規定のもとにあるのは、絶望が精神の規定のもとにあるのと同じで、眩暈は絶望と類比的なものを宿しているからである〕の場合のような、外からふりかかってくる不幸ででもあるかのように、どれほど口をついやして語り、どれほど巧妙に語って、自分自身を欺き、また他人をも欺こうとも、そうなのである。
絶望の現実的な瞬間瞬間は可能性に還元されることができるのであって、絶望者は、絶望している瞬間ごとに、絶望をみずから招き寄せつつあるのだ。絶望はたえず現在の時に生ずる。
すなわち、人間は絶望している瞬間ごとに、絶望することを招き寄せているのである。それは、絶望が不均衡の結果として出てくるのではなく、それ自身にかかわる関係の結果として出てくるものだからである。そして人間は、自分の自己から脱け出ることができないのと同じように、それ自身への関係から脱け出ることもできないのである。自己とはそれ自身にたいする関係なのだから、結局、これは同じことを言っているわけである。
『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。