キルケゴールという出来事
キルケゴールが体験し見て取ったものは、大衆という客観的なものに判定を委ねる陰で、責任の主体が失われ、根こそぎ人間喪失を招いていく、時代の「水平化」現象の進行であった。大衆の不誠実を暴力として利用する近代精神の退廃した姿であった。
柏原啓一
実存と歴史
キルケゴールにとって、歴史とは、法則の支配のままに必然的に事態の推移する世界ではなく、何が生じるか予測の効かないような、いわば自由な世界である。なればこそ、そのつど課題と責任が生じ、戦い続けられる場となるのである。
世界がこのような「歴史という自由の領域」であるのは、実は、人間が自由であるからにほかならない。キルケゴールにとって、人間とは「神の前にただひとりで立つ」単独者であり、神に対して責任をとるという仕方で、自由にみずからの主体性の形成に踏み出す時に、真の人間らしさを発揮することのできる存在である。従前の人間観、わけても近代の人間観は、知的理性に人間の本姓を認め、人間を知的理性という特定の本質を有するものとみなしてきた。だが、人間の生き方は必ずしも知性や理性によるものとはいえない。むしろ、人間は、常に責任が自分にかかってくる自由な存在、特定の本質で規定することのできない自由へと開かれている存在である。
人間が本当に生きているといえるのは、本質に依存する安易な生き方ではなく、自由という厳しい生き方においてのことなのである。
生きる上での既成の根拠を自由の内に持っていない自由が、人間を不安に陥れる。よるべき本質を持たないがゆえに不安を生む。「不安は自由のめまいである。」この不安から逃れるために、人は日常的な惰性で日を過ごしたり、刹那的な享楽に没入したり、あるいは大方の趨勢に身をゆだねたり、客観的公共性に責任を押しつけたりするが、それは受難の道を塞ぎ、主体性を放棄することにほかならない。ここに大衆社会の陥穽がある。人間はこの弱点をしっかりと心得て、自由に対して誠実でなければならない、自由から逃げ出すことなく、状況ごとにこれこそが自分だといえる自己の在り方を作り出していかなければならない。「主体性こそが真理だ」とキルケゴールがいうのは、このような意味においてである。
人間は本質から立ち現れるのではなく、本質なき無という自由から立ち現れる。個々人が単独者として自由という無からそのつど立ち現れる実存なのである。そして、そのことが可能であるような世界が、人間の世界、すなわち歴史である。人間が果敢に自己形成を試みていくことのできる、未来へと開かれている自由の世界、それが歴史である。
現代の指針
二十一世紀へと歩みを進めた現代は、情報化社会の時代といわれ、多量の情報の渦にもまれて、自分にとって大切な情報が見失われ、主体性を欠くこととなりやすい。また、自由主義を標榜する社会が、自由競争へ走ることにより、組織ごとにかえってトップダウン的な組織化を強める皮肉な自体となり、その官僚化、企業化が、個性喪失の疎外感を深める。また、世界の国際化が進むことによって、価値の多元化が生じ、文化摩擦や民族扮装が深刻さを増した。その結果、歴史の持つ相対化の働きが顕在化して、ニヒリズムの風潮が広がる。さらには、科学のもたらす技術化により、産業の工業化が加速され、公害や汚染や環境破壊が逼迫した問題になっている。
キルケゴールの考えた実存という人間とキルケゴールの提唱する歴史という世界とは、まさに主知主義や合理主義に対する批判として語り出されたものであるだけに、「死にいた病」におかされつつあるこの時代に対して「現代の批判」として提唱しつつ、新しい可能性を模索する上での指針となる使命を、いまも持ち続けているのである。
『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。