過去から受け継いだ矛盾を通じ、また過去の否定を通じて、われわれは十九世紀の文化的条件に囚われたままである。
ナルシシズムが社会で動員されるためには、あるいは人々がつかみどころのない感情と動機に精神を集中するようになるためには、集団のエゴの利益の自覚が一時的に停止されねばならない。
そこで問題は、われわれが過去にとらわれ、前提を問題にすることもせずにその影響を否定する文化にとらわれた状態になっていることが、われわれの生活にどう影響しているか、ということになる。
エゴの利益の一時停止は、社会的な取り引きを動機づけへの執着に集中させてナルシシズムへの没頭を組織的に促進することになった。
自我はもはや行為者としての人間、ものを作るものとしての人間に関するものではなくる。それは意図と可能性からなる自我なのである。
今や問題となるのは何をなしたかではなく、それについてどのように感じているかなのである。
自我が意図へと狭められるとなると、この自我を共有することは、いまや階級、政治、様式の点で大きく異なる人々を排除するところまで狭くなる。動機づけや地方主義(ローカリズム)への没入ーーこれが過去の危機の上に築かれた文化の構造なのである。
自我はあらゆる人間が潜在的にもつある創造的な能力ーー遊びの能力ーーの表現を奪われるのであり、その実現のためには自我から距離をおいた環境を必要とするのである。
動機づけのナルシシズム的な関心の集中や共同体的感情の局所化がこれらの問題のそれぞれに一つの形を与えている。
現代生活において、俗物か反動主義者に思われることなく礼儀正しさ(シヴィリティ)について語ることは難しい。
シヴィリティは、他の人々に自分を負担とさせないよう守ることをその目的としている。
シヴィリティは他人をあたかも見知らぬ人のように扱い、その社会的距離の上に社会的絆を作り上げることである。シティとは見知らぬ人たちがもっとも会うことになりそうな例の人間の居住地である。都市の公的な地理とは制度化されたシヴィリティである。
仮面は、試行錯誤によって、他人に近づきたいという衝動よりむしろ他人とともに生活したいという願望によって、仮面を被ろうとする人々によって創りださねばならないのだ。
現代のカリスマ的指導者は彼自身の心情や衝動と観衆の心情や衝動との間の距離をすべて破壊し、そこで支持者たちを指導者の動機づけに集中させて、指導者をその行動によって評価することから逸らすのである。
この現代のカリスマ的人物が体現している不作法は、いったん権力を得た彼が何をしているかを彼の支持者たちが理解するためには、一個の人間として彼を理解する負担を負わされていることであるーーそして個性という観点そのものが、その支持者たちの行為を決して成功できないようなものなのだ。
われわれ」の集団的イメージは決して固まらないために、「よそ者」の排除によるこの友愛の過程は決して終わることがないのである。断片化と内部分裂はこの友愛の論理そのものであり、同時に本当に所属している人々の単位はますます小さくなる。
戯れる能力を失うことは、世俗的な状況は可塑性があるという感覚を失うことである。
なぜならば、人は自分の外見をもって自分の人となりを表そうとし、効果的な表現のdsを表現の真正さの問題につなげようとしているからである。このような状況下では、すべては動機に返っていく。これは私が本当に感じていることなのだろうか?
動機づけの自我が親密な社会に介在するために、人々は客観的なすでに形成された記号としての感情の提示に自由に戯れてよいという気持ちになかなかなれない。
表現は真正な感情に依存しているが、人は自分の感情のなかで真正なものを決して結晶化できないというナルシシズムの問題につねに投げ込まれるのである。現代人が芸術をもたない俳優であるという観点からは、ナルシシズムに対して遊びが対比される。
独自の規則、変えられる規則をもった社会的状況としての階級は、見失われている。人の「能力」が人の地位を決定する。階級の事実と戯れることは難しくなる。なぜなら、自己の内的な本質にきわめて近い事実と戯れているように思えるからである。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳