第五章 活動
24 言論と活動における行為者の暴露
多種多様な人びとがいる人間の多数性は、活動と言論が共に成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれた人たちを理解できない。
人間の差異性は他者性と同じものではない。他者性とは、存在する一切のものがもっている他性という奇妙な質のことである。
もっとも、他者性が多数性の重要な側面であことは事実である。私たちがくだす定義が、結局は、すべて差異のことにほかならず、他の物と区別しなければそれがなんであるかということができないのも、この他者のためである。最も抽象的な形式の他者性は、ただ、無数の非有機的な物体の間だけにしか見られない。これにたいし、有機的生命の場合には、同じ種に属する個体の間においてさえ、すでに、多様さと差異が示されている。しかし、この差異を表明し、他と自分を区別することができるのは人間だけである。
言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。そして、人間は、言論と活動を通じて、単に互いに「異なるもの」という次元を超えて抜きん出ようとする。つまり言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現われる様式である。
言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。
それは、私たちが仲間に加わろうと思う他人の存在によって刺激されたものである。とはいうものの、けっして他人によって条件づけられているものではない。つまり、その衝動は、私たちが生まれたときに世界の中にもちこんだ、「始まり」から生じているのである。
この「始まり」は、世界の「始まり」と同じものではない。それは、「なにか」の「始まり」ではなく、「だれか」の「始まり」であり、この「だれか」その人が始める人なのである。人間の創造とともに、「始まり」の原理が世界の中にもちこまれたのである。これは、もちろん、自由の原理が創造されたのは人間が創造されたときであり、その前ではないということをいいかえたにすぎない。
すでに起こった事にたいして期待できないようななにか新しいことが起こるというのが、「始まり」の本性である。
たとえば、生命が非有機体から生まれたというのは、非有機体の過程から見ると、ほとんどありえないことである。同じように地球が宇宙の過程から生じ、人間の生命が動物の生命から進化してきたということも、ほとんど奇蹟に近い。このように、新しいことは、常に統計的法則とその蓋然性の圧倒的な予想に反して起こる。 したがって、新しいことは、常に奇蹟の様相を帯びる。
そこで、人間が活動する能力をもつという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。それができるのは、やはり、人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれるためである。
「始まり」としての活動が誕生という事実に対応し、出生という人間の条件の現実化であるとするならば、言論は、差異性の事実に対応し、同等者の間にあって差異ある唯一の存在として生きる、多数性という人間の条件の現実化である。
人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。
その人が「何者」であるかという暴露は、その人が語る言葉と行なう行為の方にすべて暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行なうことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか、確実なのは、他人にはこれほどはっきりとまちがいなく現われる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。
このようなことは、善行の人にはできないことである。なぜなら、善行の人は自己自身を無にし、完全に匿名でいなければならないからである。
行為において行為者を暴露しなければ、活動は、その特殊な性格を失い、なによりもまず功績の一形態になる。
この場合、言葉はなにも明らかにせず、暴露はただ行為そのものからやってくるだけである。そしてこの功績は、他のあらゆる功績と同じく、行為者の「正体」を暴露することはできず、他人と異なるこの行為者の唯一のアイデンティティを暴露することはできない。
名前のない活動、つまりそこに「正体」の付着していない活動は無意味である。これに反し、芸術作品は、作者の名が知れていようと知れていまいと、その重要性は保持されている。
25 関係の網の目と演じられる物語
言論者であり行為者である人間は、たしかに、その「正体」をはっきりと示すし、それはだれの眼にも明らかなものである。ところが、それは奇妙にも触れてみることのできないもので、それを明瞭な言語で表現しようとしても、そういう努力はすべて打ち砕かれてしまう。その人が「だれ」(who)であるかを述べようとする途端、私たちは、語彙そのものによって、彼が「なに」(what)であるかを述べる方向に迷いこんでしまうのである。つまり、その人が他の同じような人と必ず共通にもっている特質の描写にもつれこんでしまい、タイプとか、あるいは古い意味の「性格」の描写を始めてしまう。その結果、その人の特殊な唯一性は私たちからするりと逃げてしまう。
諸関係を媒介し、安定させ、定着させる物の影響力を欠いたままで、直接人間の間で進行するすべての事象が、やはり同じように不確かであるのもこのためである。
この物の世界というのは、物理的に人びとの間にある。そして、この物の世界から、人びとの特定の客観的な世界的利害が生じてくるのである。
つまり人びとの間にあって、人びとを関連づけ、人びとを結びつける何物かを形成する。ほとんどの活動と言論は、この介在者に係わっている。もちろん、この介在者は、人びとの集団によってそれぞれ異なっている。要するに、ほとんどの言葉と行為は、活動し語る行為者を暴露すると同時に、それに加えて、世界のある客観的なリアリティに係わっているのである。
しかし、それが触知できないものであるにもかかわらず、この介在者は、私たちが共通して眼に見ている物の世界と同じリアリティをもっている。私たちはこのリアリティを人間関係の「網の目」と呼び、そのなぜか触知できない質をこのような隠喩で示している。
たしかに、この網の目は、言論が存在する生きた肉体に結びつけられているのと同じように、物の客観的世界に拘束されている。
活動がほとんどその目的を達成しないのは、このように人間関係の網の目がすでに存在しているからであり、その網の目の中では、無数の意志と意図が葛藤を引き起こしているためである。
言論と活動を始めた人は、たしかに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。
歴史が全体として考えられ、歴史の主体である人類というのは、結局、一つの抽象物にすぎず、活動的な行為者とはけっしてなりえないということが判ったとき現われた。
そして、他人と異なる唯一の「正体」は、もともとは触知できないものであるが、活動と言論を通じてそれを事後的に触知できるものにすることができる唯一の媒体、それが真の物語なのである。
活動と言論の特定の内容は、その一般的な意味とともに、芸術作品の中でさまざまな形で物化されている。芸術作品は、偉業や達成を称賛し、ある異常な出来事を変形し、圧縮して、その出来事の完全なる意味を伝える。
人間生活の政治的分野を芸術に移すことのできるのは、ただ演劇だけだからである。同じ意味で、演劇の主体は、他人とさまざまな関係を取り結ぶ人間だけであり、このような芸術はただ演劇だけである。
『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。