26 人間事象のもろさ
人間事象の領域の内部には、制限と境界線がある。しかし、このような制限と境界線は、それぞれ新しい世代が自らを挿入するときに仕掛けてくる攻撃にしっかりと耐えるだけの枠組みを与えるものではない。
結局、物語とは活動が必ず生みだす結果であるとしても、物語を感じとり、それを「作る」のは活動者ではなく、物語作者なのである。
27 ギリシア人の解決
この活動と言論によって人間は自己自身を暴露するのであるが、その場合、その人は自分が何者であるのかを知らないし、いかなる「正体」を暴露するか、前もって予測することもできないからである。
ダイモンとは、その人に独特のアイデンティティであるが、ただ他人にのみ現われ、他人にだけ見える。
活動と言論は、それに参加する人びとの間に空間を作るのであり、その空間は、ほとんどいかなる時いかなる場所にもそれにふさわしい場所を見つけることができる。
この空間は、最も広い意味の出現の空間である。すなわち、それは、私が他人の眼に現われ、他人が私の眼に現われる空間であり、人びとが単に他の生物や無生物のように存在するのではなく、その外形をはっきりと示す空間である。
28 権力と出現の空間
人間生活の条件のもとで、権力に代わりうるものは体力ではなく実力である。
実際、実力とは、人間だけがその仲間にたいして行使しうるものであり、一人あるいは少数の人びとが暴力手段を手にすることによって独占的に所有することのできるものである。しかし、実力あるいは暴力は、権力を滅ばすことはできるが、けっして権力の代替物になることはできない。
まったく奇妙なことだが、暴力にとっては、体力よりもむしろ権力を破壊するほうがやさしい。体力を実際に滅ぼすことのできるのは、ただ権力だけであり、したがって体力は、常に多数者の結合した力の脅威に曝されている。権力が腐敗するのは、強者を破滅させるために弱者が団結するときであって、それまでは腐敗しない。
「人間の作品」が目的でないというのは、それを達成するための手段である徳が、現実化されたり、されなかったりする属性ではなく、「現存性」そのものだからである。
29 〈工作人〉と出現の空間
しかし、人間が達成できる最大のものは人間自身の出現であり、現存化であるというこの確信は、けっして自明の事柄ではない。 人間の感覚がリアリティをもつためには、人間は、単に与えられたままの受身の自分を現存化しなければならない。しかしそうするのは、自分を変えるためではなく、自分をはっきりと際立たせ、完全に存在させるためである。
世界が万人に共通であればこそ、私たちは世界のリアリティを判断することができるのである。そして共通感覚〔常識〕は政治的属性のヒエラルキーの中で非常に高い順位を占めているが、それは、私たちの五感が極めて個別的なものであり、その五感が知覚する情報が極めて特殊なものであるにもかかわらず、それらの感覚を全体としてリアリティに適合させる唯一の感覚が共通感覚だからである。五感による知覚は、単に、私たちの神経の刺激あるいは肉体の抵抗感覚だからである。五感による知覚は、単に、私たちの神経の刺激あるいは肉体の抵抗感覚として感じられるばかりではない。周知のように、それはリアリティを明らかにする。それは、この共通感覚のおかげである。したがって、ある共同体で共通感覚〔常識〕が著しく減少し、迷信や軽信の風潮が著しく増大するというのは、ほとんどまちがいなく、世界からの疎外が進んでいる証拠である。
出現の空間が衰退し共通感覚が死滅するこの世界からの疎外は、もちろん、生産者の社会の場合よりも労働社会の場合の方がいっそう極端に進む。
マルクスの主張によれば、経済法則というのは、自然法則に似ており、交換の自由な行為を規制するために人間が作ったものではなく、社会全体の生産条件の機能である。しかしこれは、すべての活動力が、人間の肉体と自然との新陳代謝にまで還元され、交換でははなく消費だけが存在しているような労働社会においてのみ正しいのである。
そして、この市場を結びつけ存続させる力は、人びとが活動と言論を通して結ばれるときに生まれる潜在能力ではなく、それぞれの参加者が独居の内に獲得された「交換の力」(アダム・スミス)なのである。
私たちの文脈の中で重要なことは、天才の作品は、職人の生産物と違って、活動と言論においてのみ直接表現されるような差異と唯一性の要素を含んでいるように思われることである。
たしかにその「正体」が、芸術作品のスタイルや普通の手稿の中に「客観的に」現われるとき、人格のアイデンティティは明らかにされ、したがって作者を確かめることに役立つ。しかし、この「正体」は沈黙したままであり、それを生きた人物の鏡として解釈しようとする途端、それは私たちの手からするりと逃げてしまう。いいかえれば、天才の偶像化は、商業社会で一般的な他の教説と同じような人間的人格の低落を秘めているのである。
なぜなら、この創造力の源泉というのは、天分をもつ人びとの「正体」から生まれるものであり、実際の仕事の過程の外部に立っていて、彼らが達成するものから自立しているからである。
「恐るべき屈辱」というのは、自分が自分自身の仕事の息子になると感じること」である。そして、真の芸術家や作家はこのような屈辱を感じながら、自分自身を「鏡の中の狭いこれこれのもの」として眺める運命にあるのである。
30 労働運動
少なくとも仕事は、自分が作りだした物の触知できる世界と終始関連している。
むしろ、労働こそ、反政治的な生活様式である。なぜなら、この労働の活動力の場合は、人間は、世界とも他人と共生せず、ただ自分の肉体と共にあって、自分自身を生かし続けるためにむきだしの必要と向かいあっているからである。なるほど〈労働する動物〉も、他人の存在、他人との共同の中で生きている。しかし、この共同生活には、真の多数性を特徴づける印がなに一つない。
多数者を一つのものにするこの統合性は、基本的に反政治的なものである、
「そして一般的には異なっていて等しくない人びとの間」で成り立つものだからである。
世界の公的観点から見ると、生と死、同一性を示す一切のものは、非世界的で反政治的経験であり、真の超越的経験である。
そして、交換市場さえ廃止されつつあるような状況の中では、近代を通じてこれほど顕著であった公的領域の衰退がその極に達したとしても不思議はないのである。
『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。