〔諸感官の連絡、諸感官に「先だつ」感覚すること、共感覚〕
性質、つまり分離された感覚性が生ずるのは、私が私の視覚のこの全体的構造化を破壊し、私自身のまなざしに従うことをやめ、視覚を生きるかわりに、視覚について自問し、私の諸可能性をためそうとするときである。
〔諸感官は両眼視における単眼視像のように相互に区別可能であると同時に区別不可能である。身体による諸感官の統一〕
客観として見られた二つの網膜の上には、比較を許さぬ刺激の二つの集合は重なりあうことができないし、いかなる物の視覚をも引き起こすことができない、そしてこういう意味で二つの刺激の集合の存在は、それだけ不均衡な状態をつくり出す、とこういう答が返ってこよう。
単一の対象を見るということは、焦点あわせの単なる結果ではなく、焦点あわせの作用そのもののうちですでに先取りされているということ、あるいは、すでにいわれているように凝視が「先望的な活動」であることを、認めるものなのである。
両眼視においては、複眼の二つの像が混りあって単一の像になるのではなく、対象の統一は、まさしく志向的統一である。
この統一は、だからといって、概念的統一ではない。われわれが複眼から単一の対象へと移行するのは、精神の洞察によるのではなく、二つの眼がそれぞれ自分勝手に働くのをやめて、単一のまなざしによってただ一つの器官として用いられるときにである。総合をなしとげるのは認識論的主観ではない。
われわれが総合を客観的身体から取り上げるのは、ひたすらそれを現象的な身体に与えるためにほかならない。
つまり身体が実存の凝固した形態だからである。見ること、もしくは聞くことが、ある不透明なqualeの単なる所有ではなくて、実存の一つの様式の体験であり、私の身体とそれとの同調であるならぱ、私が音を見たり聞いたりするということにも、一つの意味がある。
「人間とは、時には一方からまた時には他方から触発される一個の持続的な共通感官である」
私の身体は表現という現象の場所であり、むしろその現実性そのものなのである。そこにおいては例えば視覚的経験と聴覚的経験とは相互にはらみあい、これらのもつ表現的値が、知覚世界の先述定統一を基礎づけ、これをとおして、言語的表現と知的意義とを基礎づけるのである。私の身体は、あらゆる対象の共通の織地であり、少なくとも知覚世界に関しては、私の「了解」の普遍的な道具である。
『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。
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