mitsuhiro yamagiwa

2021-10-05

後続の私

テーマ:notebook

〔知覚的総合は時間的である〕

 しかし結合作用なしで結合されたものとは何であろうか。また誰かの対象になっていないこの対象とは何か。

 われわれは対自を即自から引き出そうとしているのではない。われわれは何らかの形の経験論に舞い戻るのではない。そしてわれわれが知覚世界の相互を委ねる身体なるものは、純然たる所与、つまり受動的に受けとられた一つの物ではない。しかしながら、知覚的総合はわれわれにとっては時間的総合であり、知覚の水準における主体性は時間性以外の何ものでもない。そして、それだからこそ、われわれは知覚の主体にその不透明性と歴史とを認めることができるのである。

 対象は私の焦点あわせの運動の終末に存するのだから、注視作用は先望的であり、そしてまた対象は対象自身の出現に先だつものとして、つまり最初からすべての過程の「刺激」、動機、ないし第一動因として、提示されるのだから、注視作用はまた同時に回顧的でもある。空間の総合と対象の総合とは、時間のこの展開に基礎づけられているのである。凝視の運動の度ごとに、私の身体は現在、過去、未来を一つに結びつけ、時間をいわば分泌する。

 それは現在のために過去と未来を存在せしめる。それは一個の物ではない。それは時間に服するのではなく時間をつくりだす。しかし、いかなる焦点あわせの作用も、たえず更新されなくてはならないのだ。そうでないとそれは無意識に陥ってしまう。対象が私の前にはっきり浮かびあがっているのは、私が両眼をその上に走らしている限りにおいてでしかない。まなざしの旋転性はその本質的特徴である。それがわれわれに授ける時間部分に対する支配力も、それが成就する総合も、それ自身、時間的現象として過ぎ去るものであり、新たな、これまた時間的な作用において捉え直される限りにおいてのみ、それらは存続することができるのである。各々の知覚作用の客観性の主張は、これにつづく知覚作用に引き継がれ、ここでまた期待を裏ぎられ、改めてまた主張し直される。知覚的意識のこの絶え間ない挫折は、その初めからしてすでに予言されうることであった。私が対象を過去に遠ざけることによってしかこれを見ることができないのは、私の感官に対する対象の最初の攻撃と同様、それに続く知覚もまた私の意識を占有し抹殺するからであり、したがって、この知覚もまた過ぎ去りゆくものであって、知覚の主体は決して絶対的主観性ではなく、後続の「私」にとって対象と化す運命にあるからである。

 知覚は真の歴史ではなくて、むしろ、われわれにおける「前史」の存在を証拠だてるものであり、これを更新するものなのである。

 知覚はその対象の総合を現在なしとげているわけではない。

 結合作用と主体なしには、結合された対象は存在しない。しかしいかなる総合も、時間によって膨らまされると同時に練り直される。時間は過去を保持する新しい現在を生むのだから、同じ運動によって、総合を問題にすると同時に確証するのである。

 主体性にとってしか時間は存在しないという事情を、まず明らかにせねばなるまい。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。