コンセプトとして、徹底し無関心でいられると同時に無関心を装う家族、その演者を監視カメラを通して定点観測すべきだったのではないか。
“目をそらすこと”に”目をそらしてはいけない”
一方で無関心でいられる、他方の興味があって、他方で無関心を装って、一方に限定化される興味対象があるとすれば、その対象は明らかに異なる。関心領域もその二重性をあらわす。むしろ関心領域という卑近さ、その世俗性をあらわしたかったのではないか。
後半、主人の転属を通して、ふつうに劇映画化される。エンディングにいたっては監督はいったい何を問いたかったのだろう?
現在のアウシュビッツ収容所を清掃する人々の映像が物語るのは、わたしたちにとっての現在であって過去でしかないのか。そういった解釈にとどまる行為は事実とは程遠い虚構を通した理解でしかないのではないのか、と。