mitsuhiro yamagiwa

2023-11-17

沈黙と孤立

テーマ:notebook

観客

 一八五〇年代までに「まともな」観客とは沈黙によって感情を制御できる観客となった。

 観客の役割は見ることで、反応することではないのである。長時間のオペラの間の観客の沈黙と静寂は、観客が〈芸術〉と接触したしるしなのだ。

 演者は彼らをかきたてた。しかし、かきたてられるためには、彼らはまずみずから受動的にならなければならなかった。この特殊な状況は観客にたえずつきまとった自信喪失に由来するものだった。

 ……ある経験に対する記者なり批評家なりの主観的反応、その感情の調子は、その論説の内容よりもはっきりと上に立った。感情の状態を表現することが判断を明確に述べる様式となった。

 読者にとっては、すべては再確認の様式であった。大衆は自分自身の判断する能力に信頼を失いつつあったがゆえに、これらの解釈をおこなう仲介物が音楽において大きくなっていった。

 いかなる反応も示さないこと、感情を包み隠すことは、傷つかず、不器用であることから免れることを意味している。沈黙は、その暗い面においては、信念喪失のしるしとして、十九世紀の性格学の相関物であった。

 ーー自己規制した観客は公の個性に空想上の権威の重荷をおき、その公の自己のまわりのあらゆる境界線を消し去るのである。われわれは一つの特性としての個性の「権威」について直観的なある概念をもっている。それは他の人々が従わなければならないというより、従いたいと思う人、指導者のものである。

 個性を公的領域に押し入れた勢力は、公の場で生活している人々の大部分から「本当の」個性をもっているのだという確信を奪い取り、そこでこれらの人々は本当の個性をもっている人々を捜しに行ったのだが、この探索はファンタジーの行いによってのみ終結するものだった。

 公の場での受動的な沈黙は退却の手段であり、沈黙が強制されるほど、それだけあらゆる人は社会の絆から自由なのである。

 観察と「心の中でものごとを思いめぐらすこと」が談話(ディスコース)にとってかわるのである。

 前世紀において、外見を個性のしるしとしてみなすことと、日常生活において無言の観客となることとの間には親密な関係があった。

 なぜなら、誰かの外見を自我のしるしとして真剣に捉えることは、彼なり彼女なりの生活への能動的な侵入、さらには詮索も意味するからである。

 公の表現は自己に抑制を課すことによってのみ理解できた。このことは行動する少数者への従属を意味し、またそれ以上のものであった。この沈黙の規律は純化の行為だった。人は自分自身の趣味、歴史、反応したいという願望が不純になることなく、十分に刺激されたいと望んだ。このことから、受動性が論理的に知識のための要件と思えるようになった。

 沈黙は秩序なのである。なぜなら沈黙は社会的相互作用の欠如だからである。

 沈黙が孤立をつくりだしたために、パブリック/プライヴェイトの区別は正反対な対としては維持されないであろう。

 人はこのプライヴァシーを求めて家族の居間からカフェやクラブに逃れた。それゆえに沈黙は公的イメージと私的イメージを重ね合わせた。沈黙は他の人々に見えると同時に他の人々から孤立することを可能にした。ここに誕生する理念が、われわれがすでに見たように、現代の超高層ビルを一つの論理的帰結とするものである。

 大宴会が象徴していた社会は、個人的経験の重要な領域としての公的領域に執着しながら、社会的関係という点については公的領域の意味を無にしてしまっていた社会であった。

 これらの理由で、十九世紀の末には観客の根本的条件が変わっていた。沈黙は芸術における依存関係、社会における独立的孤立化をもたらしたものであった。公的文化の理論的根拠の一切が砕け散ってしまっていた。舞台と街の関係はいまや転倒した関係になった。芸術に存在した創造性と想像力の源は、もはや日常生活を豊かに育むのに使えなくなったのだった。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳