mitsuhiro yamagiwa

2024-02-27

模倣の模倣

テーマ:notebook

第6章 クレメント・グリーンバーグーー芸術のエンジニア

 全ての歴史的アヴァンギャルドの芸術作品と文章は、このラディカリズムの競争によって決定されており、他人が見逃した何らかの過去の痕跡を見つけ、それらを完全に消去しよとする意思によって決定されている。

 もし古典的な芸術が自然の模倣であるとしたら、アヴァンギャルド芸術はこの模倣の模倣である。

 もはやグリーンバーグにとってアヴァンギャルドの芸術家は、実際のところ、先達が用いた芸術のテクニックを明らかにするがそれらの主題を無視するプロの鑑定家なのである。そしてアヴァンギャルドは主として抽象という手段によって制作する。

 グリーンバーグは、十分な教育を受けていない大衆が最初から芸術革命の消費者や物質的な責任者となりうることを期待していない。むしろ、彼は支配階級、つまりブルジョワジーが新しい芸術を支持すると期待することは理にかなっているとする。

 現実の政治的経済的権力を保つため支配階級は趣味の違いを消そうとし、社会の現実の権力構造と経済的不平等を隠蔽する、大衆との美的な連帯という幻想を作り出そうとする。

 結局、グリーンバーグはアヴァンギャルドとの関係に関しては、民主主義体制と全体主義体制の間に大きな違いを見出さない。どちらの体制も、支配するエリートとより多くの大衆との間の文化的統合という幻想を生み出すために、文化に関する大衆の趣味を受け入れる。

 支配階級は実践的、実用的、技術的に思考し始める。彼らは自分の時間と労力を鑑賞や自己研鑽や美的経験に費やすことを望まなくなる。

 ブルジョワジーはファシストの規則に服従し、退廃的で破壊的なエリート主義のアヴァンギャルドを支持することによって世界の文化の遺産を売り渡したのだから、プロレタリアートの役割は新しい文化を作るというよりも、世界の文化がすでに作り出した最良のものを取り入れ、保証することだ、というものである。

 今日でもわれわれの大衆文化に対する理解は、「アヴァンギャルドとキッチュ」に深く負っている。なぜならば、いまだに大衆文化と「高尚な」アヴァンギャルド芸術の対比があふれているからである。

 グリーンバーグにとってキッチュはモダンな大衆の感性を反映し、大衆はまさにそのために過去の芸術よりもキッチュを好む。

 グリーンバーグは、キッチュを明白な芸術現象と同一視することで、歴史的アヴァンギャルドが過去の芸術を分析したように、新たなアヴァンギャルドがキッチュを分析する有効な方法を開く。

 支配層のエリートの趣味が一般的な趣味よりも洗練されていたとしても、彼らが芸術生産には興味がなく、芸術の消費にしか興味がないのは明らかである。

 作者の死について語られ、そして主体性と志向性が脱構築された後でさえ、われわれは最初から芸術のプロジェクトとして美学的意図をもって行われさえすれば、これらすべての作業は生み出す作業として解釈しうると考えがちである。そしてまたわれわれは、大衆はそのような意図を持たず、美的効果をただ「無意識」に生み出していると推測する傾向にある。

 どんな芸術作品、そしてどんな物も、この問題に関してはアヴァンギャルドとキッチュの二つの視点から理解し見ることができる。第一の場合には技術に興味を持ち、第二の場合には効果に興味を持つ。

 したがって、われわれの芸術の理解は永遠にアヴァンギャルドの態度とキッチュの態度の間を移動しているのである。グリーンバーグがマクロな文化として記述した対比は、事実、現代社会のそれぞれ個人のメンバーの美的感覚を明確にしているのである。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳