Ⅱ 知覚、あるいは事物と錯覚
感覚的確信から知覚の真理へ
普遍性が知覚の原理一般であるように、知覚のうちでただちに区別されることになるその継起もまた普遍的な物である。つまり〈私〉は普遍的な〈私〉であり、たほう対象も普遍的な対象なのだ。
「このもの」とは「このものではないもの」であるーー「止揚」の意味
「止揚する」とは「否定すること」であると同時に「保存すること」なのだ。
知覚にさいしての意識の第一のふるまい
非真理はむしろ、知覚するはたらきにぞくするものなのである。
「私たち」の立場から意識の経験を比較すること
事物はそれをとらえようとする意識にたいして一定のしかたであらわれてくるけれども、同時にそれが呈示されるしかたの外部にでて、みずからのうちへと反省的に立ちかえっている。ことばをかえれば、事物はそれ自身にそくして、対立する真理をそなえているということなのである。
事物は他のものとの関係においてのみ自立的に存在する
関係とはしかし、事物の自律性を否定するものであり、かくて事物はむしろみずからの本質的な性質により、没落し、その根底にいたることになる。
対象とはむしろ、一箇同一の観点にあってじぶん自身の反対物である。すなわち対象は、他のものに対して存在するかぎりでじぶんに対して存在し、みずからに対して存在するかぎりで他のものに対して存在するのである。
総括ーー悟性の領圏へ
個別性と、これに対立する普遍性は抽象であり、それは非本質的なものと結合した本質が抽象であって、非本質的でありながらそれでも同時に必然的なものもまた抽象であるのと同様である。
悟性が総じてもっとも貧しいものとなるのは、つねにじぶんではもっとも豊かであると思いこんでいるときなのだ。
Ⅲ 力と悟性、現象と超感覚的世界
「力」の概念
普遍的なものは、それ自身においてこの数多性とわかちがたく統一されている。
「誘発するもの」と「誘発されるもの」
力は〔一方では〕、これまで規定されてきたように、力そのもの、つまりみずからのうちへ反省的に立ちかえったものと考えられる。このばあい力は、その概念のひとつの側面である。他方で力は、実体的なひとつの極として存在し、しかも「一」という規定されたありかたのもとで定立されたものとして存在する。
力にとって、みずから外化することが必然的なのであるから、力の外化は、くだんの他のものが力に接近してきて、力を誘発することであると考えられるにいたる。
ことばをかえれば、力がみずから外化してしまっているのであり、誘発する他のものであると称されていたものこそが、かえって力〔そのもの〕なのである。
力は、とはいえ必然的にこの「一」でなければならないにもかかわらず、力はいまだなおそのようなものとして定立されていない。それゆえこの他のものが接近してきて、力を誘発し、じぶん自身のうちへと反省的に立ちかえらせる。つまり、力の外化を廃棄するのである。
こうして「一であること」は、それがあらわれたそのままのすがたにあっては消失する。つまり、ひとつの他なるものとしとは消失するのだ。
力とはすなわち、みずからのうちに押しもどされた力なのである。
力のたわむれ
他のものとして登場し、力を誘発して、外化させ、またみずから自身のうちへと立ちかえらせるものは、ただちにあきらかであるとおり、それじしん力である。
力はそれゆえ、ひとつの他のものが力に対して存在し、力が一箇の他のものに対して存在することによっては、一般的にいってなおその概念から抜けでているわけではない。とはいえ他方では同時に、ふたつの力が目のまえにあることになる。
対立するものは、ふたつのまったく自立的な力へと分裂することで、統一の支配から逃れさったかにみえる。
ふたつの力のあいだには、こうしてたわむれがなりたっている。その両方のたわむれが存立するのは、双方の力がこのように対立したかたちで規定されていることにおいてである。
誘発するものは、たとえば普遍的媒体として定立され、これに対して誘発されるものが、押しもどされた力として定立される。
ことばをかえれば、この後者の力こそがむしろ、前者にとって誘発するものとなり、後者によってはじめて前者の力は媒体であることになる。
力こそが誘発するものを普遍的媒体として定立するということであり、したがってむしろ力のほうがそれじしん本質的にいって普遍的媒体であるということだ。力が誘発するものを定立する。それは、この〔普遍的媒体であるという〕もうひとつの規定が力にとって本質的だからである。いいかえれば、この規定がかえって力そのものだからなのである。
内容の形式の区別とその解消
区別そのものが二重の区別においてあらわれることである。すなわち、区別は第一には内容の区別としてあらわれる。その場合には一方の極はじぶんのうちに反省的に立ちかえった力であり、他方の極は、これに対して諸物質の媒体である。
区別は第二には形式の区別であって、そのばあい一方の極が誘発するもの、他方の極は誘発されるものであり、前者が能動的で、後者は受動的である。内容の区別にしたがえば、両極は一般に、あるいは私たちに対しては区別されて存在している。
つまり形式という側面からすれば、本質からして能動的なもの、誘発するもの、あるいはそれだけで存在するものは、内容という側面からみて受動的なもの、誘発されるもの、いいかえれば他のものに対して存在するものは、内容の側面からみるならば、多くの物質の普遍的な媒体としてあらわれていたのとおなじものであったのである。
『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。