mitsuhiro yamagiwa

2024-02-09

時間の不可逆性

テーマ:notebook

第1章 流れ(フロー)に入る

 伝統的な人間文化の主要な仕事は全体性を探求することだった。この探求は、人間自身の特殊性を克服し、人間の「生活形態」によって決定された特定の「視点」を取り除き、どこまでもいつでも有効な一般的で普遍的な世界観にアクセスしたいという人間主体の欲望によって決定された。

 われわれは特殊なものは常に組み込まれていて、全体に従属しているということを知っている。したがって全体性への欲望は単に自由への欲望なのである。

 全体性へと達することは不死に達することと同じなのである。

 われわれは特定の社会的規範の中に書き込まれている。

 われわれのパーソナリティはわれわれの身体よりも長く生き、われわれが流れの全体性に直に接近するのを妨げる。

 特別な物質的客体とみなされている芸術作品、いわゆる芸術の本体は滅びうる。しかしそれらを公にアクセスすることのできる、可視的な形態とみなすとき、それらが滅びることはない。

 しかし、キュレーションされた企画と伝統的な展示の違いは何なのか?伝統的な展示はその空間を匿名でニャートラルなものとして扱う。

 すでに知られた言説を再生産し説明するだけの個人によるキュレーション企画は、単純に何の意味もなさない。同じ理由でそれぞれのキュレーション企画は前のものを否定することになる。新しいキュレーターはかつての独裁の痕迹を消去する新しい独裁者である。

 今日美術館は鑑賞の場であることをやめ、むしろものごとが起こる場になった。

 われわれは美術館を訪れるよりも頻繁に美術館の活動をインターネットでフォローする。

 近頃では美術館の劇場化がしばしば語られる。この美術館の劇場化は美術館が現代のエンターテイメント産業に巻き込まれていることのしるしとしてしばしば批判される。

 しかしインスタレーションの空間と劇場の空間の間には決定的な違いがある。劇場では観客は舞台の外に位置しているが、美術館では観客は舞台の中に入り、スペクタクルの内部に位置することになる。

 美術館はイベントを上映するだけでなく、イベントのイベント性や、その境界と構造を探求するための媒体でもある。

 伝統的な美術にたいする解釈学的な立場は、芸術的意図、社会的な力、もしくは芸術作品にその形式を与える生命力を発見するために、外部の鑑賞者の眼差しが芸術作品に浸透することを求めた。

 現代美術館の訪問者のまなざしはむしろ芸術イベントの内側から外側へと向けられている。

 芸術のシステムは通常、芸術作品の制作者の眼差しと芸術の鑑賞者の眼差しの間の不均衡な関係によって特徴付けられる。これらの二つの眼差しはほとんど一致することはない。

 今や訪問者はイベントの内部に押し込まれ、このイベントを記録するカメラの眼差し、記録に対して事後の制作を行う編集者の二次的な眼差し、もしくは記録を後日鑑賞する者の眼差しと一致することはありえない。

 これが、現代美術館の展示を訪問すると時間の不可逆性に直面する理由である。

 美術館は、普通の人間の眼差しと、テクノロジーによって武装した眼差しの間の非対称的な戦いが発生するのみならず、テーマ化された批判的に理論化され得るために、その戦いが明らかになる場なのである。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳