I 感覚的確信、あるいは「このもの」と「思いなし」
感覚的な確信の豊饒と貧困
むしろことがらは存在する〔だけである〕。ことがらが存在するのは、それがただ存するからだ。「ことがらが存在する」ということ、この件が感覚的な知にとっては本質的なものなのである。
すなわち、意識とは〈私〉であって、それ以上のなにものでもなく、純粋な「この者」である。この個別的な者が純粋な「このもの」を、ことばをかえれば個別的なものを知っている、とされるのだ。
直接性のなかの媒介ーー「この者」と「このもの」の区別
私が確信を手にするのは、他のもの、つまりことがらをつうじてのことであり、他方ことがらもおなじように他のもの、すなわち〈私〉を介してこの確信のうちにある。
このように、本質とかたわらにたわむれているもの〔実例〕との区別、つまり直接的なありかたと媒介との区別が存在する。この区別は、ひとり私たちのみが設定するものではなく、くだんの区別は感覚的確信そのものにそくして見いだされることになる。
確信において一方は単純に直接的に存在するものとして、いいかえれば実在として定立されている。これが対象である。
対象が存在するのは、それが知られているか、知られてないかに対してかかわりがない。対象は、それが知られていない場合でも存続する。知はいっぽう、対象が存在しないときには存在しないのである。
対象にかんして反省をくわえたり、「対象とはその真のありかたにおいてなんであるか」を考究したりする必要はない。むしろ対象を、感覚的確信がその対象をみずからにそくして手にしているとおりのかたちで観察すればよいのである。
直接的な指示とその弁証法
存在する「いま」は指示された「いま」とはべつのものである。そこで私たちの見てとるところ、「いま」とは「それが存在するとき、もはやすでに存在しないもの」にほかならない。「いま」とは、それが私たちに指示されるがままのありかたにあっては、一箇の「存在したもの」であって、この「存在した」ものであることが「いま」の真のありかたである。つまり「いま」が有するのは、「存在する」という真理ではない。したがって、たしかに真であるものがあるとすれば、それは「いま」が存在したものである、ということである。
〔かつて〕存在したものは〔いまは〕存在したのであって、しかし「存在すること」が問題であったのである。
「ここ」もまた多くの「ここ」である
「ここ」とは多くの「ここ」の単純な複合なのだ。
普遍的な「ここ」とは、「一日」が「いま」の単純な多数性からなるように、「ここ」の単純な多数性なのである。
『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。