mitsuhiro yamagiwa

意識は自己自身を超越する

 意識とはたほう、じぶん自身にとってみずからの概念なのであって、そのことでただちに制限されたものを超えでてゆく。しかもこの制限されたものは意識にぞくしているのだから、意識はみずから自身を越えてゆくのだ。

探求の困難ーー吟味の尺度は存在するか

 意識はすなわち、或るものをじぶんから区別すると同時に、この或るものに関係している。

 あるいはこう表現してよい。或るものが意識に対して存在しているのである。そして、この関係の、あるいは或るものの意識に対する存在の有する一定の側面が、知ということになる。一箇の他のもの〔である意識〕にたいするこの存在から、私たちはたほうでは自体的存在を区別する。知に関係づけられたものが、同時にまた知から区別されて、この知との関係の外部にも存在するものとして定立される。この自体的なものという側面が、真理と呼ばれるのである。

 知は私たちの対象であり、知は私たちに対して存在している。

 意識はみずからの尺度をじぶん自身にそくして与え、だから探究はこの件をつうじて、意識の自己自身との比較となるからである。

 すなわち、このふたつの契機、概念と対象、他のものに対して存在することと、自体的にそれ自身として存在することが、私たちが探求している知のうちにそのものとしてぞくしており、かくして私たちが尺度を持ちこむことは不要なのであって、私たちの思いつきや考えついたことを探求にさいして当てはめることも必要がない、ということである。そういったものを取りのぞくことで私たちはことがらを、それが自体的に、またそれ自身に対して存在するとおりに考察することへといたるのだ。

知が変化すれば、対象もまた変容する

 つまり概念と対象、尺度と吟味されるものが意識そのもののうちに現に存在している即自からして、私たちの側でなにかを付けくわえることがよけいなものとなる、というだけではない。

 つまりは、意識がじぶん自身を吟味するのだから、私たちにはこの側面からしても、ただひたすらに「見てとること」だけが残されている。意識とは一方では対象についての意識であるとともに、他方ではじぶん自身にかんする意識だからである。

 意識はそもそも対象についての知を有しているのであって、ほかでもないこの件のうちにすでに区別が現に存在している。すなわち意識にとって或るものが自体的なものであり、他の契機がいっぽう知、いいかえれば対象の意識に対する存在なのである。

 けれども、知が変化する時、意識にとってじっさいには対象そのものも変化している。現に存在する知は、本質的に当の対象にかんする知であったからである。知が変化するとともに対象もまたべつの対象となるが、それは、対象が本質的にこの知にぞくしていたからだ。

弁証法的運動としての「経験」

 すなわち、この〔あらたな〕自体的なものが意識に対して存在することが真なるものであり、要するにこの件が意味するところはたほう、この真なるもの実在であって、ただちに意識の対象である、ということである。この真なるものが実在であって、ただちに意識の対象である、ということである。このあらたな対象のうちにふくまれているのは、最初の対象が空無であったという消息であって、第二のあらたな対象こそが第一の対象をめぐってなされた経験なのである。

 意識に対して対象であるものは、私たちに対しては生成である。

 だから私たちが概念的に把握するのは、ひとえにくだんの内容の形式的な側面だけである。つまり、内容が純粋に発生してくる、という側面にかぎられる。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。