四 自由問題の難点
神が悪の共謀者として現われることは否定できない。というのは、徹頭徹尾依存的な存在者のもとでは、許容するということは協力するということと大差ないからである。
悪においては総じて積極的なるものは何もない、換言すれば、悪は決して(他の積極的なるものとともに又これに即してすら)実在しない、然らずしてすべての行為は多少なりに積極的であり、その間の区別は完全性の単なる多い少ないである、という主張である。この完全性の多少ということによっていかなる対立も基礎づけられず、従って悪は全然消えてしまう。これは、すべての積極的なるものは神から由来するという命題に関する第二の可能なる仮説といえよう。
しかもこれも単にわれわれの比較に対してのみ欠如(Mangel)として現われるので、自然においてはなんらの欠如ではない。これがスピノザの真の意見であることは否定できない。
最初であるもの(das Ertste)は無限に多くの中間段階を通して次第に弱まって行って、もはや善の影もないもののうちへ没してしまう。
すなわち、従属と遠離とをどこまでも押し進めて行くことによって、その先にはもはや何も生じ得ないような或る最後のもの(ein Letztes)が現われてくる。そしてまさにこのもの(それ以上先への生産に無能力なもの)が悪である。換言すれば、最初のものの次に何かがあるならば、もはや最初のものを少しも含まないような或る最後のものもまたあらねばならぬ。そしてこれが質料であり、また悪の必然性なのである。
五 実在論と観念論との融合の必要
あらゆる実在的なるものに対して忌避するのは、それと少しでも接触すれば精神的なるものを不純にするからというのであるが、同時にまた悪の起源を見る眼をも当然盲いたらしめねばならぬ。観念論も或る生きた実在論を基底としてもつのでなければ、ライプニッツの、スピノザの、或いは何かその他の独特的体系と同様に無内容で空疎な体系となる。近世ヨーロッパの全哲学は、その(デカルトによる)初まり以来、共通の欠点をもっている。すなわち彼らには自然なるものは存在せず、自然に生ける根底(Grund)が欠けているということである。
観念論は哲学の霊魂である。実在論はその肉体である。両者合して初めて一つの生ける全体を形成する。後者は決して原理を提供することはできないが、しかも前者が自己を現実化し血と肉を取る時の根底であり媒介でなければならぬ。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳