mitsuhiro yamagiwa

2023-05-14

善と悪との能力

テーマ:notebook

d 自由の否定としての汎神論

 永遠なるものが自己の本質によってそれの理由となるというごときものは、その限りにおいて依存的なものであり、また内在の見地からすれば、その理由のうちに包含されたものでもある。しかし〔第一に〕依存性は自立性を廃棄せず、自由をさえも廃棄しない。依存性は本質を限定するものではなくして、ただ、依存的なるものが、そのいかなものたるに拘らず、それの依存しているものの帰結としてのみあり得る、ということを言うにすぎない。依存性は、依存的なるものが何であるかまた何でないかを言うものではない。

 〔第ニに〕他のうちに包含されているということについても同じことが言える。眼というごとき個々の肢体は、一つの有機体の全体のうちにおいてのみ可能である。しかもそれがそれ自身としての一つの生命を、否、一種の自由を持っていることに変りない。

 神性の表現にはただ自立的なる存在者のみがなり得る。なんとなれば、われわれの表象が〔本質的に〕制限を含むのは、まさしくわれわれが非自立的なものを見るということによるのでなくしてなんであろうか。神は物自体を直観する。自体においてはただ、永遠なるもの、自己自身の上に基づくもの、意志、自由があるのみである。

e 自由と汎神論とは矛盾せず

 かくてまず起こったのが、近時の哲学的文献の特色をなす頭と心との分裂であった。すなわち、人は帰結を忌み避けるだけで、考え方そのものの根拠から解放されるか、或いはよりよく考え方にまで昇るかすることはできなかった。

f スピノザ主義の意味

 汎神論は少なくとも形式的自由を不可能にはしない。

 彼は意志をも一つの事物として取り扱い、しかるのち甚だ自然に、意志のその作用するどの場合においても或る他の事物によって規定されてはおらねばならず、この事物はさらに或る他の事物によって規定されており、このようにして無限に至る、ということを証明するのである。

 スピノザの根本概念は観念論の原理によって精神を吹き込まれ(かくして唯一の本質的な点において変ぜられ)、自然のより高き観方において、また力動的なるものと心情的・精神的なるものとの認識せられた統一において、生きた基底を与えられた。そしてその基底から自然哲学が発生した。自然哲学は、単なる物理学としてこれのみでも存立することはできたが、哲学の全体に関してはいつも単にその一部分すなわち実的部分として、自由の支配する理的部分の補足を俟って初めて、本来の理性体系に高められ得ると考えられた。

 意欲が根元存在である。そして意欲にのみ根元存在のすべての述語、すなわち根源なきこと、永遠なること、時間からの独立、自己肯定、が妥当する。哲学全般はただこの最高の表現を見出すことにむかって努力するのである。

三 観念論の自由

 自由を味わったことのある者のみが、一切を自由に類比せしめたいという願望、宇宙全体の上に自由を拡げたいという願望を感ずることができる。この道を通って哲学に来たのでない者は、他の人々に追随して単にそのなすことをまねるにとどまる。しかしカントがはじめて物自体を単に消極的に、時間からの独立性によって、現象から区別し、その後その実践理性批判の形而上学的究明において、時間からの独立と自由とを実際に双関的概念として取扱った後で、自体なるもののこの唯一可能な積極的概念〔自由〕を物へも移すという考えに進み行くことをしなかったのは、いつまでも奇妙なこととして残るであろう。

 しかし他面からいえば、もし自由を自体なるもの一般の積極的概念とすれば、人間的自由の研究は再び一般的なるものに投げ戻されてししまう。というのは、自由の唯一の基とされた叡智的なるものは、また〔あらゆる〕物自体の本質でもあるからである。

 すなわち観念論は一面ではただ最も一般的な、他面では単に形式的な自由概念を与える。しかるに実在的なそして生きた自由概念は、自由とは善と悪との能力であるということなのである。

『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳