ニ 自由と汎神論
a 宿命論としての汎神論
たいていの者は、もし彼らが正直であれば、告白するであろう。自分たちには個人的自由は最高存在者なるものの殆どすべての特性、例えば全能、に対して矛盾の形で現われる、少なくとも自分たちのもつ諸表象はそういうふうにできている、と。
b 万物即神の汎神論
神とはそれ自身のうちに有りかつそれ自身からのみ把握されるごときものである。しかるに有限なるものは、必然的に或る他のもののうちに有りかつただこの他のものからのみ把握され得るごときものである。
いかなる種類の寄せ集めによっても、その本性上被導出的であるものがその本性上根源的であるものに移り行くことはできない。あたかも一つの周辺の個々の点が集め合わされても、全体としての周辺が概念上必然的にそれらに先立つ以上、周辺を構築しえないと同様である。
善は悪であるといえば、その意味は、悪がそれ自身によって有る力を有せず、そのうちに有るものは(そのもの自体だけで見た場合)善なるものである、ということであるが、これが解釈されて、正と不正、徳と罪悪の永遠なる区別は否定せられる、両者は論理的に同じものである、というふうになる。
古えの深奥なる論理学は主語と述語を、先行するものと帰結するもの(前件と後件)として分ち、かくすることによって同一律の実的意味を表現した。
c 個別性の否定としての汎神論
そもそも汎神論において語られるのは、神が一切であるということではない(これは神の諸性質に対する通常の考え方にすれば、どうしても旨く避けられぬことである)、それよりはむしろ、万物は無であるということ、この体系が一切の個別性を廃棄するということを言っているのである、と。
なるほどこの新しい規定は前の規定と矛盾しているように見える。なんとなれば、もし万物が無であるならば、神はそれらと混淆することはどうしてできよう。
かかるものは異端史においてこそ尊重されるかも知れないが、微かな諸規定が本質的変化を惹き起こすこと、あたかも最も繊細なる自然現象におけるごときものがあるところの、精神の所産に対しては、あまりにもがさつすぎる扱い方であると思われる。
スピノザの最も硬い表現はたぶん次のようなものである。すなわち、個々の存在者は、それの変遷すなわち帰結の一つのうちに見られた実体そのものである云々。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳