そのものの、意味にあふれた名称は、われわれに対しては、そのものの不在の場合のそれーーいわば、時間におけるそれ、となる。
それはある合い間を隔てての、そのものである。そのものを名づけることによって、われわれは、いわば一歩を引き下がってそれをよそ目で見渡すことができる。
すべての実在はあらゆる各個別の人間にとっては、主観性/客観的である。完全な自性の一瞬は主観的/客観的とはならないてあろう、それは絶対の主観性となるであろう。
一つの物もしくは出来事とは、「反応/刺激」というパターン全体に合致することであって、その半分によって作ることのできないものである。われわれはわれわれが対象化する物の対象的象面のみを実在と見る傾向をもっている。ものの、 ー/客観的象面は、それがそのパターンの実用的効用をもつ側面であるゆえにわれわれは専らそれのみを知ろうとする。
すべての実在の「主観的/客観的」性質を曖昧にし、かくして、少なくとも何ものかは絶対の客観的存在をもつであろうと想像させる結果にいつも作用するもひとつの作因がある。それはわれわれはお互いにたまたま意見が一致するということである。
『ものの考え方 - 合理性への逸脱』オズワルド・スチュワート・ウォーコップ/著、深瀬基寛/訳,第五章 原子エネルギーの哲学面より抜粋し引用。