問題はただ時代がいかにあるか、そのあり方だけであり、そしてこのあり方は、かなり一般的な見地に立ってはじめて看取されうるのであって、この一般的な時代観から生ずるもろもろの帰結は、可能性から現実性への推論によって到達され、観察による経験によって、現実性から可能性へと推論して論証されるのである。
しかしこれだけは確かなのだが、知識が増せば憂いが増すように、反省が増しても憂いが増すのである。そしてわけても確かなのは、個人個人にとっても一世代にとっても、反省の誘惑からのがれ出ることほど困難は課題もないということだ。
その理由は、ほかでもない、反省の誘惑が実に弁証法的だからである。
反省というやつは、いつなんどきでも説明を変えて、なんとかこっそり人を逃してやることができるからである。
ただ反省のなかで反省は位置を変えたというだけのことだからだ。
反省をこととする時代では、力の発散も一種の弁証法的な芸当にもその意義をだまし取ってしまうのである。そのような時代は、暴動となって絶頂に達するかわりに、人と人との関係のもっている内面的な真実の力を萎えさせて、反省の緊張という奇妙なものに一変させてしまう。すなわち、すべてを存続させておきながら、全人生を一種の曖昧さに、つまり、事実、すべてはそこにありはするけれども、弁証法的なペテンがこっそりとーーそれはありはしないのだ、というーー内密の読み方にすり変えてしまうといっ曖昧さに一変させてしまうのである。
品性とは内面性にほかならないからである。不道徳も、エネルギーとしては、やはり品性である。ところが道徳でもないし不道徳でもないのは、曖昧さである。そして善か悪かという質のうえの選言的な対立が、徐々に蝕む反省によって弱められると、人の世の曖昧さが支配することになる。情動の暴動は原始的な力をもっているが、曖昧さによってなし遂げられる解体は、黙々と、しかし夜を日について休みなくいとなまれる連鎖式のようなものである。
善と悪とを識別する力は、悪についての浅薄でお上品な理論的な知識によって、つまり、善はこの世では真価を認められもしないし報いられもしないーーだから善を行なうのは愚かだと言っていい、と心得た高慢な賢さによって、衰弱せしめられる。
善に心ひかれて偉業をなし遂げる者もなければ、悪にせかれて非道な罪を犯す者もない。そのかぎりでは、一方が他方に言って聞かせるようなことはなにもないだろう。しかし、だからこそそれだけ、おしゃべりの種が多くなるわけだ。
曖昧さは人を興奮させる刺激剤であって、善にたいする喜びや悪にたいする嫌悪とはまったく違った意味で、多弁だからである。
質の違いとなってはじめて物と物との違いがあらわれてくるのだが、その違いの距離は、もはや事物の相互関係の内面的な関係を規制する法則ではなくなっている。内面性が欠けているのだ。だからそのかぎりでは関係は現実に存在していない。あるいは関係の粘着力が弱くなっているのである。
つまり、その関係を支配している消極的な法則は、「お互いにどちらがいなくても困るのだが、お互いにくっつき合うこともできない」ということであり、積極的な法則は、「お互いにどちらがいなくてもかまわぬし、お互いにくっつくこともできる」ということである。
すなわち、異質的なものが自分と異質的なものと関係するのではなくて、両者はそこにつっ立ったままでお互いにらめっこをしているのである。だから、このような緊張は実は関係の終息なのである。
『現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。