Ⅳ 自己自身であるという確信の真なるありかた
自己自身にかんする確信の成立
対象についての概念は、現実の対象にそくして廃棄される。ことばをかえれば、〔対象にかんする〕最初の直接的な表象が経験〔の進行〕のなかで廃棄されるのであって、確信は消失して、その真理があらわれるのである。
〈私〉とは関係の内容であるとともに、関係することそのものである。
自己意識とは真理の故郷であるーー先行形態との関係
じっさいには自己意識とは感覚的で知覚された世界の存在から反省前に立ちかえることであり、本質的にいって、他であることから還帰することである。自己意識とは、自己意識であるかぎり運動なのだ。
かくて区別は存在せず、自己意識とはただ「〈私〉は〈私〉である」(フィヒテ)とする、運動を欠いた同義反復であるにすぎない。
欲望としての自己意識の対象は生命あるものである
つまり自己意識とはさしあたり欲望であるとはいえ、その自己意識がそれゆえに経験するところはむしろ、じぶんの対象が自立的であることなのである。
円環を形成する生命の本質
ひとつであることが分裂するのは、それが絶対的に否定的で無限な統一であるからだ。いっぽう統一が存立するものであるからこそ、区別が自立性を手にするのもまた統一においてのみである。形態がこのように自立性を有するものとしてあらわれるのは、規定されたもの、他に対するものとしてである。形態とは分裂したものであるからだ。つまり分裂の廃棄は、そのかぎりで他のものをつうじて生起することになる。
生命と生命あるものーー円環としての生命
形態はむしろかえってこの自然から分離することをつうじ、つまりその自然を喰らいつくすことによってみずからを維持しているのである。
生命の単純な実体とは、したがってその実体そのものがさまざまな形態へと分裂してゆくことであり、同時にこのように〔諸形態として〕存立している区別項を解消することなのだ。
みずからを展開し、その展開を解消する全体、そのような運動のただなかでじぶんを単純に維持する全体こそが、生命を形成するのである。
『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。