時代が情熱のない反省的な時代となって、すべて具体的なものを払拭してしまうと、公衆は一切のものを総括すべき全体となる。
現実の人間であれば、そのひとりひとりがなにほどかの意義をもっているが、そういう現実の人間が、現実の瞬間および現実の状況と同時代にあるところに、個人個人の支えがある。ところが公衆は現に存在していても状況も結集も作ることがない。ものを読む個人個人はむろん公衆ではない。そのようにだんだんと多くの個人が、もしかすると万人が読むことになるかもしれない、がしかしそこに同時代性は存在しない。公衆は、いわば集められるには長い歳月を要するかもしれない、しかしそうして集められても、公衆というやつはそこにいはしない。個人個人が誤った推理で作りあげるこの抽象物は、当然しごくながら、個人個人を助けるかわりに突き放すのである。
現実の瞬間および現実の状況にあって現実の人間と同時代にありながら、自分自身の意見をもたないという人は、多数者と同じ意見をとる。しかし、よく注意してほしいが、多数派も少数派も、どちらも現実の人間なのであって、この点に、これらの人々との結びつきには支えがあるのである。
それに反して、公衆はひとつの抽象物である。
公衆とはただ「抽象的に」存在しているだけだからである。だから、いかなる多数派もいまだかつて公衆ほど確実に正しく勝利をおさめたためしはないのに、この事実は個人個人にとってあまり慰めにならない。公衆は、親しく近寄ることを許さない幻影だからである。もしだれかが、今日、公衆の意見を採用し、そして明日やじり倒されるとしたら、その人をやじり倒すのは公衆なのだ。
公衆はどこまでも公衆のままである。一国民にしても、一議会にしても、一個の人間にしても、もはや以前と同じものではないと言わざるをえないような変わり方をするかもしれない。ところが公衆のほうはまるきり正反対のものになることができるし、しかも正反対のものになりながら以前と同じものーー公衆なのである。
近代人を古代から絶対的に区別するのは、このように、全体が具体物でなくて抽象物になっているということであろう。すなわち、全体が個人個人をささえ、個人的を育ててゆきながらけっして絶対的なものに育てあげるようなことをしない具体物ではなくなって、個人個人を抽象的な意味で平等にしてしまったうえで突き放して、個人個人がーー途中でくたばってしまわないかぎりーー絶対的なものに育てあげられるように助力する抽象物になってしまったということである。古代においては、「傑出者とはほかの人々がそうはありえなかったものであった」という嘆きがあったが、いまでは、「宗教的に自分自身を獲得した者とは、すべての人がそうでありうるものでしかない」のであって、ここには人の心をふるいたたせるものがあると言えるだろう。
公衆は、ひとつの国民でも、ひとつの世代でも、ひとつの同時代でも、ひとつの共同体でも、ひとつの社会でも、この特定の人々でもない。これらはすべて、具体的なものであってこそ、その本来の姿で存在するからだ。まったく、公衆に属する人はだれひとり、それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。一日のうちの幾時間かは、つまり、人がなにものでもない時間になら、彼はおそらく公衆に属するひとりであろう。というのは、彼の本来の姿である特定のものであるような時間には、彼は公衆に属していないからである。
このような人たちから、すなわち、彼らがなにものでもないような瞬間における諸個人から成り立っている公衆というやつは、なにか奇怪なもの、すべての人々であってなんびとでもない抽象的な、住む人もない荒野であり真空地帯なのである。しかしまたこれと同じ理由から、だれでもが公衆をもっていると称することができるのだ。
これらいくつものすべてのゼロの先に、もうひとつ自分のゼロをつけ加える権利を絶対にもっているのである。
公衆は一切であって無である、あらゆる勢力のうちで最も危険なもの、そして最も無意味なものである。公衆の名において全国民に語りかけることはできる。けれども、その公衆は、どんなつまらぬたった一人の現実の人間よりも、より少ないものなのだ。
公衆は個人個人を一国民を支配する帝王より以上のものだと空想させてしまう分別時代の童話である。しかしまた公衆は、個人個人を宗教的に教育するーーあるいは滅ぼしてゆく、不気味な抽象物でもある。
多くの人が便々と暮らし、安易に時を過ごしているのを思うと、それが恐ろしいのである。
この関係は水平化の最低線である。つまり、あらゆる水平化を通約する公約数に相当する。永遠の生命もまたそのような一種の水平化だといえる。だが、そうではない。なぜなら、この場合の公約数は、宗教的な意味において本質的な人間である、ということだからである。
『現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。