mitsuhiro yamagiwa

2023-02-01

公示される自己

テーマ:notebook

文庫版解説

 わが国の政治学には、依然としてマルクス主義の強い影響がみられた。アレントの『人間の条件』は、まずこうしたマルクス主義に対する根底的批判として受容されたといってよいであろう。

 現代の高度産業社会は、機械に代表される単純労働の価値を高め、余暇と手仕事に新たな可能性をうみだしている。しかし、実用と効率のみで人生の価値を測ろうとする不毛な便宜主義の風潮がいまだ消えていないし、マルクス以後、「労働」を不当に尊重し、社会問題の解決のみが人間生活のすべてであるかのような迷妄がながらく支配してきた。

 労働の全面的優位に現代世界の最大の危険の兆候をみるアレントは、マルクスの理論と対決しながら、労働優位の世界の矛盾と限界を明らかにしている。

 彼女が労働優位の社会として批判の対象としたのは、社会主義社会だけではない。自由主義社会もまた労働優位と経済的重視の社会であり、その点では社会主義社会と全く同じである。

 アレントは『人間の条件』において、自由主義社会と社会主義社会双方を含む現代社会全体を根底的に批判したのである。

 複数の人間が公的領域において、万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示することに、政治の本質があるといえよう。

 公的領域で活動することは、他の人々に自分がいかなる人間であるかを示すことである。そのとき、卓越した活動を示すことができれば、その人は後世にまで人々の記憶のなかで生きることができる。

 アレントの『人間の条件』は、何よりもまず普通の市民の政治参加の拡大こそ決定的に重要な意味を持つことを教えてくれる。

 「厳密にいうと、私的なものでもなく公的なものでもない社会的領域の出現は、比較的新しい現象であって、その起源は近代の出現と時を同じくし、その政治的形態は国民国家に見られる」

 公的領域の再生のためには、国民国家を相対化する必要がある。

国民国家をその基底において支えているものは、労働の全面的勝利であり、労働が消費と表裏一体であるという意味では、消費の全面的勝利なのである。国民国家が労働と消費の圧倒的優位によって支持されている限り、それを相対化することはきわめて困難な課題であるといわざるをえない。

 しかし、この労働と消費の優位もまた今日重大な困難に直面している。ここに、現代の政治が解決を迫られている第三の問題点があるといえよう。それは、単純化していえば、資源問題であり、環境問題である。

 マルクスが、「労働と生殖は、繁殖力をもつ同一の生命過程の二つの様式であると理解し、それを自分の理論全体の基礎とした」ことに典型的に示されているように、「人間の活動力の中で、終りがなく、生命そのものに従って自動的に進む活動力は労働だけである」。労働は生命のリズムと密接に結びついているが、現代社会では「機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、強めるであろう」。

 オートメーションに代表される現代の機械生産は、生命のリズムを極限にまで強めることによって、大量消費社会を実現した。しかし、「生命そのものに従って自動的に進む労働」には本来終点がないから、消費社会はますます膨張せざるをえないであろう。この過程に横たわる「明白な危険信号の一つは、私たちの経済全体がかなり浪費経済になっているということである。この経済においては、過程そのものに急激な破局的終末をもたらさないようにするために、物が世界に現われた途端に、今度はそれを急いで貪り食い、投げ棄ててしまわなければならない」。いわゆる「投げ棄て文化」とし批判されている大量消費社会は、生命過程としての労働を優位に置く社会の当然の帰結である。また、大量消費社会が直面する環境汚染や資源枯渇の問題もまた、労働優位の社会の当然の帰結にほかならない。こうした問題を根本的に解決するためには、労働の優位を覆さなければならないし、それは仕事や活動の物件を図ることと表裏一体をなしているといってよいであろう。

 アレントのいう労働の原型は、明らかに家事労働である。労働の優位が確立されたということは、本来家族の内部で行われていた労働が、社会全体的に拡大されたということである。その意味では、すべての労働は家事労働の変型にすぎず、家事労働と社会的労働を区別する理由は存在しない。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。