mitsuhiro yamagiwa

2021-11-24

先在と残存

テーマ:notebook

Ⅱ 時間性

〔時間は物にはない〕

 主体はやはり時間的であり、それも人間のある偶然的な構造によってではなく、内的必然性によってそうなのである。われわれは主体と時間とについて、それらが内的に通いあっているといった考え方をするように促されているのである。

 われわれは時間をそれ自身において考察しなくてはならない。そしてまさに時間の内的弁証法を追求することによって、われわれは、主体の観念の改造を余儀なくされるのである。

 時間は過ぎゆく、または流れるといわれている。われわれは時の流れについて語る。

 もし時間が川に似たものなら、それは過去から現在、未来に向って流れるはずである。現在は過去の結果であり、未来は現在の結果である。この周知の比喩は、実ははなはだ不分明である。

 いやむしろ、出来事たる概念自体、客観的世界のなかには、存在の余地がないのである。

 もろもろの「出来事」とは、有限の観察者によって、客観的世界の空間-時間的全体のなかから切り抜かれたものなのである。しかしながら世界そのものを考察するならば、不可分にして不変の唯一の存在しかない。およそ変化というものは、そこに私が立ってそこから諸物の未来を眺めるある立場を、予想している。出来事が存在するのも、彼に対して出来事が起り彼の有限な展望が出来事の個体性を根拠づける、といったあるひとの存在を必須の条件としている。時間は時間に対するある眺めを予想する。それゆえ、時間は小川のようなものではない。つまり流れる実体ではない。

 小川は流れる(自己を流れ去らせる)というとき、われわれはすでにそうしていたのである。

 そして時は過去からくるのではない。過去が現在を推し進めるのでもなければ、現在が未来を存在のなかへと推進するのでもない。将来は観察者の背後で準備されるのではなくて、ちょうど地平線上の嵐のようにあらかじめ彼の前方でおもばかられる。

 時間は諸事物に対する私の関係から生ずる。物そのものにおいては、将来と過去とは、一種の永遠なる先在と残存とのうちにある。物そのものにおいては、未来はいまだなく、過去はもはやなく、現在は厳密にいえば単なる限界でしかないので、したがって時間は崩壊すると、しばしばいわれている。それゆえにこそライプニッツは客観的世界を瞬間的精神と定義することができたのだし、またアウグスティヌスは、時間を構成するために、現在の現前のほかに、過去の現前と未来の現前とを要求したのである。

 過去と未来とは、世界のなかにむしろあまりにありすぎる。それらは現在ある。そして、存在が時間的であるために存在自身に欠けているものは他所、かつて、明日という非存在なのである。

〔時間経過そのものによる時間の統合〕

 新しい現在の出現が、過去の沈降と未来の動揺を惹起するのではなくて、新しい現在とは、まさに未来の現在への移行であり、また先だつ現在の過去への移行である。時間は端から端まで一挙に動き始める。

「時間とは、やがて存在するであろうすべてのものに対して提供された存在手段であり、しかも、もはや存在しなくなるために存在するという手段なのである。

 われわれのもつ原初的な時間体験における時間とは、われわれにとって、われわれがそれを貫いて往き来するところの客観的な諸位置のシステムではなくて、列車の窓から見える風景のように、われわれから遠ざかりつつある運動する環境なのである。

 私にとって一週の始まりは固定した点である。つまりある客観的な時間が地平に姿を表わしているので、したがって私の直接の過去のなかにも、すでにそれが粗描されているはずである。

 時間的な脱自性が、諸時間の個体性の消失する絶対的な解体作用ではないということは、どうして可能なのだろうか。そのわけは、未来から現在への移行がつくったものだけを、この解体作用がこわしているにすぎないからということである。

 「時間化とは、もろもろの脱自性の継起ではない。未来は過去の後にあるべきものてはなく、また過去は現在に先だつものではない。時間性とは、現在-へと-来ること-によって-過去-へと-向う-ところの-未来として自己を時間化する。」ベルクソンは時間の統一性を、その連続性によって説明するという誤りをおかした。

 それぞれの現在性は、それが駆遂する過去の全体の現存を再び主張し、将-来の全体の現存を先取りするものであるということ、現在はその本質の上からしてもそれ自身のうちに閉じ込められているのではなくして、未来と過去とに向っておのれを超越するものである、ということにほかならない。

 実際はみずから自己自身を確証する唯一の時間があるのである。つまり、あらかじめ現在として、また同時に将来の過去として、基礎づけることなくしては、何ものをも存在せしめることができない唯一の時間、ひと息におのれを確立する唯一の時間があるのである。

〔主体としての時間と時間としての主体〕

 主体性が即自存在の充満をやぶり、そこに展望を切り開き、非存在を導入するとき、初めて、それらは現実に存在するようになるのである。過去も未来も、私がそれらに向ってわが身を差し伸べるときに、出現するのでるある。私自身にとって、私は、今この瞬間に存在するのではない。私は本日の朝にも、あるいは、やがてくる今晩にも、同様に存在するのである。

 現在から別の現在への移行を、私は思惟するのではない。私はその傍観者ではない。私がそれを遂行するのである。

 私自身が時間であり、カントが若干の場所でいっているように、「留まり」「経過せず」「変化せぬ」時間なのである。おのれ自身の先を越すという、こうした時間の観念は、常識もそれなりの仕方で捉えている。

 一つの時間があるといわれるのは、一つの噴水があるといわれるのと同様である。つまり水は変化交替するが、水の形は同一のままに保たれるから、噴水は留まる、といわれうるのだ。形が保存されるのは、あい続くそれぞれの波が、先だつ波の機能を継承するからである。つまり押される波に対して押すという関係にある波が、今度は、次の波に対しては押される波になるのである。そしてそのことは終局、水源から筒口に至るまでもろもろの波が互いに分たれていないということから生ずるのだ。

 川の比喩が正しいとされるのは、まさにここにおいてであって、川が流れるからではなくて、川がそれ自身と一体をなしていて分つことができないからである。

 しかしながら、時間の永遠性に関するこの直観も常識によって危険にさらされている。それというのも常識は時間を主題化したり、客観化したりするが、これこそまさに、時間を見失う最も確かな仕方だからである。

 そして、時間が同じく時間のままでいるというのも、過去が昔の未来であり、先ほどの現在であるからであり、現在がやがて過去となるべきものであり、先ほどまで未来だったからであり、最後に未来はまさに来たらんとする現在、いや過去でさえある、からである。

 時間を主体として、そしてまた主体を時間として、理解しなくてはならない。この根源的な時間性が外的出来事の並列ではないことは、全く明らかである。それというのも、それはもろもろの出来事を相互に隔てながら、しかも全体として保持する能力だからである。究極の主体性は、言葉の経験的な意味において時間的なのではない。

 われわれは、「自己を意識するためのいかなる意識をもおのれの背後にもはやもたない意識」を、したがってそれ自身は時間のなかに展開されず、その「存在が対自存在と一致している」ような意識を容認せざるをなくなる。究極の意識は内的時間ではないという意味において、「無時間的」であるということができる。私が私の現在を、生けるがままに、それが含蓄するすべてのものを伴った姿で把握するならば、現在の「なかに」は未来と過去への脱自があり、この脱自は、時間の諸次元を、互いに競いあうものとしてではなく、互いに分離されえぬものとして、現出させるはずである。

主体性は、時間を引き受け、あるいは生き、そして一個の生の統合と一体となるのだからこそ、それ自身は時間のなかには存在しないことになる。

〔構成的時間と永遠性、究極の意識は世界への臨在である〕

 私は過去においてある。そして一つの過去把持のなかにはそのまま過去把持が嵌まり込んでいるという事情のために、私は私のいっそう以前の諸経験をも保存していることになる。

 またもや時間の「総合」は移行の総合である。つまり自己を繰り広げる生の運動であり、この総合を実現するには、この生を生きる以外にやりようはない。時間の場所というものはない。ほかならぬ時間自身がおのれを運びおのれを新たにおし進めるのである。

 時間のなかで過ぎ去りゆかぬものは、時間の経過そのものである。時間はたえずおのれを更新する。

 永遠性の感情というものは、偽善的なものである。なぜなら永遠性は時間によっておのれを養っているからである。

 私にとって時間が存在するのは、私が時間のなかに位置づけられていればこそである。つまり私がすでに時間において拘束されたものとしておのれを見出すからであり、存在の全体が親しく私に与えられてはいないからであり、結局、存在の一区画が私にとってはあまりに近すぎて、私の眼前に絵のように立ち現われることができず、ちょうど、私の顔を見ることができないように、私はそれを見ることができない、という事情であればこそなのである。私にとって時間があるのは、私が一つの時間をもっているからである。

 究極の意識とは現在の意識のことである。つまり知覚においては、私の存在と私の意識とは一つである。

 知覚は不透明であり、私の感覚的諸領野を、つまり私と世界との原始的な連累を、私の知ることがらの土台として要求するのである。私の存在と私の意識が《ex-sistance》という事実的な所作(geste)と一体をなしているからである。

 われわれが時間の全体を保持し、われわれ自身に臨んでいるのは、われわれが世界に臨在しているからである。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。