mitsuhiro yamagiwa

Ⅲ 自由

〔対自と対他、相互主観性〕

 私は私自身にとっては、特定な企投ではなくて純粋な意識である。

 カントがすでにいっているように、「すべての認識は経験から始まる」ということから、われわれは直ちに「すべての認識は経験に由来する」という主張に移行することはできないからである。経験的に存在する他者が私にとって他の人間であるべきならば、私は、彼らをこのようなものとして認知するに足る条件を、もたなくてならない。したがって「対他」の諸構造は、すでに「対自」に属する諸次元でなければならない。

 他人は私にとって必ずしも対象ではない、いや決して完全に対象であるということはない。そして例えば共感において、私は他人を裸の実存ならびに自由として知覚しうるにせよ、しえないにせよ、それさえ私自身をかかるものとして知覚する場合とまったく同じ程度でそうなのである。絶対的な主観性が私自身の抽象的な概念でしかないように、他人-対象は他人の不確実な様相でしかない。したがって私は、最も根本的な反省においてもうすでに、私の絶対的な個人性の周囲に、いわば一般性の縁暈もしくは「社会性」に雰囲気を、捉えているのでなければならない。

 「対自」ーー私自身にとっての私、他人自身にとっての他人ーーは、「対他」ーー他人にとっての私、私自身にとっての他人ーーを地として、その上に浮かび出るのである。私の生は、私自身が構成したのではない一つの意味を、もたねばならない。

〔自我とその一般性の暈、絶対的流れはそれ自身にとっては一個の意識である〕

 実際に与えられているものは、時間の一断片、ついで別の一断片、とか、ある個別的流れ、そしてそれとは別のもう一つの流れ、といった形のものではなくて、それぞれの主体性がそれ自身によって引き継がれるという事態であり、一個の自然の普遍性のなかで多数の主体性が相互に引き受けあうといった自体、つまり相互主観的な一つの生と一つの世界の統合性であるからである。現在は、対自と対他、個別性と一般性の、媒介を実現する。真実の反省は私を、無為な近づきがたい主観性としてではなく、 私がいま実現しているがままの、世界と他人へのわたしの臨在とまさに同じものとして、私自身に示すのである。すなわち、私は私の見るすべてであり、相互主観的な一つの領野である。

〔条件づけられた自由〕

 フッサールのいうように、現実に存在するものは「自由の領野」と「条件づけられた自由」なのである。

〔臨在における即自と対自の暫定的総合。私の意義は私の外にある〕

 現在を引き受けることによって、私は私の過去を捉え直し、変容する。私はその意味を変え、私自身をそれから自由にし、離脱せしめる。

 私の時間を生きることによってこそ、他の諸時間も理解できるのであり、現在と世界のなかに没入し、私がたまたまそれであるところのものを断乎として引き受け、私が現に意志していることを意志し、私の為しつつあることをまさに為すことによってこそ、私はさらにかなたへと超えてゆくことができるのである。

 私の外部から私を決定するものは何もない。しかしこれは、私を促すものが何もらないからではなくて、かえって私が最初から私の外にあって、世界に向って開かれているからなのである。

 人間とは諸関係の結び目にすぎない。諸関係のみが人間にとって重要なのだ。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。