Ⅳ 他人と人間世界
〔自然的時間と歴史的時間との絡みあい〕
基礎づけるというのは、それが、私の現在における不透明な要素について反省することを可能ならしめる全く新たな未来を私に開くからであり、危うくするというのは、この未来からして私が、私の生きる現在を、疑う余地のない確実さをもって捉えることは決してできないし、したがって生きられたものを決して完全に理解されうるものではなく、私が理解するものは決して正確には私の生と合致はせず、結局、私は私自身と決して一つにはならぬからである。
私は人格的実存においても私が構成するのではない時間によって担われているからこそ、私のすべての知覚は自然を背景として浮かびあがるのである。私は、私が知覚している間にも、また知覚の器質的諸条件について私が何も知らない場合ですら、夢想的な散漫な「もろもろの意識」を統合していること。つまり私の人格的生に先だち、これにとってはどこまでも外的にとどまるところの、知覚の諸領野を伴った視覚、聴覚、触覚を統合していることを、自覚している。自然的領野とは、この一般化された実存の足跡である。そして、いかなる対象も最初は何らかの点で自然的対象なのであり、それが、私の生のなかに入りうるべきであるならば、それはもろもろの色彩や、触覚的・聴覚的諸性質から出来あがっているはずである。
〔人格的行為はいかにして沈澱するか、他人はいかにして可能であるか〕
自然が私の人格的生の中心にまで浸透し、それと絡み合っていると同様、もろもろの行為は自然のなかに降りたら、文化的世界という形で沈澱する。
いかにして「私」という語は複数となりうるのか、いかにして「私」という一般的な観念がつくられるうるのか、私のとは別の「私」について語ることがどうして可能なのか、他のもろもろの「私」が存在することは私はどうして知りうるのか、原理的にそしてまた自己認識として「私」という様態においてある意識が、「君」という様態において、またそれを通じて「ひと」の世界において捉えられることがどうしてできるのか。
〔自然的世界における精神物理的諸主体の共存と文化的世界における人間の共存〕
私が感覚的諸機能をもち、視野、聴野、触野をもつ限り、私はすでに、私と同様に精神物理的主体と見られる、もろもろの他者と交わっているのである。私のまなざしが行動しつつある生ける身体に出会うと、それをとりまくものではなくて、この身体の行動が役だてんとするところのものである。知覚された身体のまわりに渦ができ、この渦のなかに私の世界は引き入れられいわば吸い込まれる。
私は、世界に対するある手掛かりとしてしか、私自身に与えられていない。ところで他人の身体を知覚するのは、まさに私の身体であり、これはそこに、いわば自分自身の諸志向の奇蹟的な延長を、つまり世界を取り扱うなじみ深い仕方を見出すのである。今後は、ちょうど私の身体の諸部分が一緒になって一つのシステムを形作っているように、他人の身体と私の身体とは、唯一の全体となり、ただ一つの現象の裏表となる。
かくして道具は一定の操作さるべきものとして、他人は人間的行動の中心として、確定されるからである。他人の知覚において本質的役割を演ずるはずの文化的対象が、特に存在する。それは言語である。対話の経験においては、他人と私との間に共通の場が構成され、私の思惟と彼の思惟とはただ一つの織地をなす。私の言葉と相手方の言葉は、議論の状態によって喚起され、われわれのいずれ一人が創造したわけでもないある共通の作用のなかにさしはさまれる。
われわれは、互いに完全な相互性における協力者であり、われわれのパースペクティヴは相互に移行しあい、われわれは同じ一つの世界を通じて共存するのである。現に進行中の対話においては、私は私自身から解き放たれている。他人の思想は確かに彼の思想であって、それをつくるのは私ではない。もっとも、私はそれが生れるやいなやそれを補足するし、いやそれどころかそれに先行しさえするのであるが。
他人の知覚と相互主観性とが問題となるのは、成人にとってでしかない。幼児は、彼をとり巻くすべてのひとびとにとって近づきうるものと、無造作に彼が信じている世界のなかに、生きている。彼は、私的な主体性としては、自己自身も、また他人をも、少しも意識していない。
彼は観点というものについての知識をもっていない。
つまり、各々の意識がおのれの否認すべき他の意識の現存に気づくことができるためには、それらの意識が共通の場をもち、幼児の世界における平和な共存を想起せねばならないのである。
「しかしもろもろの自由と自我の共存なるものは存在するか。独我論の永続的真理性、それは「神において」も克服されえぬ」他人の実在は私にとって単なる事実であると、いわねばならないだろうか。
われわれは非人称的なものを主体性の中心に導入し、パースペクティヴの個別性を抹消する。しかし、この全般的な混淆においてわれわれは自我とともに他我をも消失せしめてはいないだろうか。
しかし、それらが排斥しあうのは、まさにそれらが同じ要求をもち、他我が自我のあらゆる変化の後を追うからこそである。知覚する我がほんとうに一個の我であるなら、それは他の我を知覚することはできない。
このように知覚できるのは、非歎と怒りとが「世界における(への)存在」の変容であって、身体と意識との共有物であり、したがって私に提示されるがままの私自身の振舞の上に存すると同様、他人の振舞の上にも、その現象的身体において可視的に存するからである。
各人がこの「唯一無二の」世界を投射するのは、彼の主観性を基礎としてである。
あるいはむしろ、客観的思惟とそれから帰結するコギトの唯一性は作りものではなくて、十分な根拠をもった現象なのであり、われわれはその基礎を探究しなくてはならないであろう。私と他人との間の争いは、他人を思惟しようとするときに初めて始まり思惟を非措定的意識と非反省的生に再統合すれば消失する、といったものではないのだ。
相互性なしには他我は存在しない。相互性がなければ一方の世界が他方の世界を包みこんでしまうだろうし、また一方は他方のために他有化されていると感ずるからである。
他人独自の世界をもった他人の措定と、私の世界をもった私自身の措定とは二者択一を構成している。
つまり、いかなる肯定もいかなる自己拘束も、いや、いかなる否定いかなる懐疑ですら、あらかじめら開かれたある領野において生起するのであり、おのれに触れる一個の自己を、自己自身との触れ合いが見失われる特殊な諸行為に先だって証拠だてるのである。
私は、あらゆる側面で私自身の作用によって超えられ、一般性のなかに沈められている。しかしそれでもやはり私は、これらの作用を体験する当のものなのである。
他人の実在は私にとって単なる事実であると、いわねばならないだろうか。しかし、いずれにせよ、それは私にとっての事実であり、したがって私自身の諸可能性の一つであって、それが事実として意味をもつためには、私によって何らかの仕方で了解され、もしくは体験されなくてはならない。
〔しかし孤独と意思疎通は同一の現象の二つの面である。絶対的主体と拘束された主体ーー出生、中断されるかが消滅せざる意思疎通〕
私がこっそりと私自身から抜け出し、非反省的なものをまさにかかるものとして体験することができるかを、知ることが肝要なのである。
私は与えられている。すなわち、私は、自然的・社会的世界のなかにすでに状況づけられ、拘束されたものとして自己を見出すのである。ーー私は私自身に与えられている。
『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。