mitsuhiro yamagiwa

第三部 対自存在と世界における(への)存在

I コギト

〔コギトへの復帰、コギトと知覚〕

 私が「私が見ていると思惟する」ことの明証性を見られた物に関するいっさいの判断の外に維持することは、ひとびとの思うほど容易であろうか。いやこれはかえって不可能なのである。

 知覚と知覚されたものとは、必然的に同じ存在様相をもっている。それというのも、物そのものに触れるという、知覚のもっている、いやむしろ知覚そのものであるところの、意識を、知覚から分離することはできないからである。

 ただ単に、可視的と称せられるものに関係するだけではなく、現実に見られている存在に関係することが、私の視覚活動にとって本質的なことなのである。

 「見ていると感じ」

 この場合には、単に可能的なもの、ないし蓋然的なものについての確信しかわれわれにはないわけである。

 「見ていると思惟すること」

 見ることの思惟は、想像上の視覚活動でしかなく、われわれが、ほかの機会に実際の視覚活動をしていなければ、これさえも存在しないであろう。

 「我」の諸作用は、その本性からして自己自身を超出するものであり、したがって意識の内部は存在しない。意識はすみずみまで超越である。

 見ることについて、あるいは感覚することについて私がもつ意識は、自己完結的な心的出来事を受動的に注意し記録することではない。つまり見られ、感覚された物の現実性に関しては、私を不確かのままに残しておくような、受動的な注意ではない。

 それはまさに視覚活動の実行なのである。私が見ていることを確信するのは、あれこれのものを見ること、あるいは少なくとも視覚的周囲ないし世界を私のまわりに呼び起こすことによってである。そしてこの周囲この世界は、それはそれで、個別的な物を見ることによって、初めて究極的に確証されるのだ。視覚活動は一つの行為である。

 視覚は視覚にとって本質的なことである。もし自己把握がなければ、それは何ものを見ることでもないであろう。しかし一種の両義性と不分明性において自己を把握することが、それにとっては本質的なのである。それというのも、視覚は自己を所有しているのではなく、かえって自己を逃れて見られた物のなかに消えうせるからである。私がコギトによって発見し認知することは、心理学的内在性、つまりあらゆる現象の「個人的意識の諸状態」への内属、感覚のそれ自身との盲目的な触れ合いではない。

ーーそれは、私の存在そのものをなす超越性の深い運動であり、私の存在と世界の存在とに対する同時的接触である。

〔知覚と同様、明証性も一つの事実である。必証的明証性と歴史的明証性、心理主義と懐疑論に対して〕

 もろもろの知覚があると同様に、もろもろの真理が存在するのである。

 ある特定の本質の直観が、われわれの経験においては、直観の本質に先だつのである。思惟を思惟する唯一の仕方は、まず第一にあるものを思惟することである。したがってかの思惟にとって本質的なことは、おのれ自身を対象として取り上げないことである。

 われわれの誤謬は、ひとたび誤謬として認知されたとき、初めて真理となるのである。そして、誤謬のあからさまな内容と、かくれた真理内容との間には、つまりそれらの表向きの意義と実際の意義との間には、どこまでも一つの差異が残るのである。

 世界とは、必然的なものと可能的なものとが、単にその区域でしかないような、現実である。

 私は一連の「意識状態」にすぎないものとされてはならない。

 つまり、われわれが思惟していることを知るためには、まずわれわれが実際に思惟するのでなければならない。

 主体性が他に依存するものでありながら、それと同時に拒むことのできないものであるということがいかにして可能なのか、を理解することが肝心なのだ。

〔依存的であり拒みえない主観〕

 コギトの真のいい表し方は、「ひとが思惟する、ひとあり」となるはずである、と。言語の驚異は、言語が言語そのものを忘れさせるということである。私は眼で紙上の線を追う。しかしこれらの線が意味するものに捉えられた刹那から後は、私はもはやこれらの線を見てはいない。

 表現は表現されたものの前で消え失せる。それゆえ、表現の媒介的役割は気づかれずにすぎてしまう。

 言語が意味をもってくるのは、それが幼児にとってある状況をつくるようになったときからである。

 『省察』を書いたとき、デカルトがめざしていたのは、この沈黙のコギトである。

 意識が言語活動の所産でないということを口実として言語を意識の所産たらしめないことが、肝要なのである。

〔世界企投としての主体。領野、時間性、生の脈絡〕

 個人性と主体の核心に普遍性と世界とが見出されるのである。

 われわれの精神物理的存在の最も秘めやかな振動もすでに世界を告示し、性質は物の粗描であり、物は世界の粗描となるからである。マールブランシュの言葉を借りれば永遠に「未完成の作品」でしかない世界、あるいはフッサールが身体に対して適用した用語に従えば「決して完全に構成されない」世界は、構成する主観を要求するどころか、むしろこれを排除しさえする。

 私があらゆる特殊な作用の外で私自身を垣間見らことができる限りにおいて、私は結局は何であろうか。私は一つの領野である。私は一つの経験である。

 いや新しいモナド、もしくは新しい一つのパースペクティヴが生じたのでさえない。それというのも、私はいかなるパースペクティヴにも拘束されているわけではなく、観点を変えることができるからである。ただ私はつねに一つの観点を、一度にたった一つの観点を占むべく強いられているだけである。ーーしたがってこの場合、諸状況の新たな可能性が生じたのだと、われわれはいわねばならない。

 物はおのずから時間を通り抜けるのだが、そのような物における僅かな揺らぎがあるだけである。これと同様に、私は一連の心的作用であるのでもなければ、それらを総合的統一にまとめあげる中心的自我でもない。そうではなくておのれ自身から分離されえぬ唯一の経験であり、唯一無二の「生の脈絡」つまりその出生以来おのれを明かしつづけ、各現在においてこの出生を確認してきた、唯一の時間性なのである。

 主体が状況においてあるということ、いや実は主体とはもろもろの状況の可能性以外の何ものでもないということ、これは、主体が実際に身体であり、この身体を通じて世界のなかに入っていくことによってしか、その自己性が現実化されないからなのである。

 つまり、諸物がその姿を現わし、一個のはかり知れない個体がおのれを主張し、それぞれの実存が自己を了解し、他者を了解する、ということだ。われわれのいっさいの確信を基礎づけるこれらの現象を承認しさえすればよいのだ。絶対的精神とか、われわれから遊離した世界自体とかへの信仰は、この原初的な信念の合理化でしかない。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。