第ニ章 ポスト人間中心主義ーー種を越える生
おそらくグローバル資本のモットーは、「我買う、ゆえに我あり!」なのである。
グローバル経済は、市場の要請のもと全ての種を究極的にはひとつにしようとし、それが行きすぎているがゆえにこの惑星全体の持続可能性を脅かしてしまうという点において、ポスト人間中心主義的である。かくしてネガティヴなたぐいのコスモポリタンな相互連結が、脆弱性が汎人間的な絆となることを介して成立することになる。
すなわち、「人間という物質が変異可能であることを表現する生化学的な様式においては、種としての統一性は失われてしまう」というのだ。
そのためには、批判的に考えること、それどころかそもそも考えることとはどういう意味なのかについて、わたしたちの共有する理解が変異することが必要になる。
動物への生成変化という変容の軸は、人間中心主義の放棄とともに、種を横断する連帯の認識を含意しており、その基盤は、わたしたちが環境のなかにいること、すなわち、身体をもち状況に埋め込まれ、他の種と共生しているということである。惑星的な次元、あるいは地球への生成変化という次元は、環境および社会の持続可能性の問題を前面化し、エコロジーや気候変動の問題を特に強調する。
動物への生成変化としてのポストヒューマン
ポスト人間主義は、種のヒエラルキーという観念、そして唯一「人間」が万物の尺度であるという観念を追放する。
言語はすぐれて人間学的なツールではないだろうか。
犬は自然と文化の混合物としてーー科学技術の他の産物にも似てーー、重要な他者であるとはいえ、徹底した他者なのだ。犬はほとんど人間と同じくらい社会的に構成されている。
あるひとのポストヒューマンとの関係にまずもって影響を与えるのは、人間なるものについてそのひとがくだす批判的な評定である。
代償的ヒューマニズム
ポストヒューマンへの生成変化がわたしのフェミニスト的自己に訴えかける理由のひとつは、歴史的にいってわたしの性別が完全な人間性に成り遂げることができなかったからである。それゆえ、人間性というカテゴリーへのわたしの忠誠心は、せいぜい交渉可能な程度であり、けっして当然のものではないのだ。
地球への生成変化としてのポストヒューマン
わたしたちは自然主義的基礎づけ主義を自明視する主体性の理論を前提とすることができないし、社会構築主義的な主体の理論に依拠することもできないということである。
批判理論は、潜在的に矛盾する諸々の必要性に応えなければならない。
わたしたちは、技術的人工物に対する関係を、かつて自然がそうであったのと同じくらい密接なものとして概念化しなおすことも必要としている。技術的装置はわたしたちの新たな「中間環境」であり、この密接性は、義肢的で機械的な拡張という近代性の所産よりもはるかに複雑で生成的である。わたしたちはこうした諸々のパラメーターの変化を通して、場所の政治学の重要性をつねに心に留め、そもそもこれらすべての疑問を提起している「わたしたち」とは正確には誰のことなのか究明しつづけたいとも思う。ポストヒューマン的主体性を考えなおすためのこの新たな図式は、複雑であるとともに豊かなものであるが、それを基礎づけているのは、差し迫った緊急性をもってわたしたちが直面しているような実生活にかかわる世界史的状況なのである。
人間とは生物学上の存在物よりも大きな存在であり、目下のところ地質学的な規模の力を振るっていることを認めるならば、わたしたちの思考には尺度の変化がもたらされており、いまや、惑星的ないし地球中心的な次元をそこに含み込むことが必要になっているのである。
差異についての問いによって、わたしたちは、権力に、場所の政治学に、そして倫理的・政治的な主体性理論の必要性に連れ戻される。
批評理論家たちに必要なのは、先進資本主義の倒錯した物質性と偏向した流動性とによって引き起こされる差異の中性化に対して、厳格で首尾一貫した抵抗を唱えることなのだ、と。
(人間〉を特権化してきたヒエラルキー的関係から離脱するポスト人間中心主義的な転換のためには、主体の側がある種疎遠になり、徹底的に再配置されることが必要なのである。これを成し遂げる最善の方法は、支配的な主体観を脱親和化〔=異化〕する、あるいはそこから批判的な距離をとるという戦略である。脱同一化は、別の創造的な選択肢のための道を敷くために、なじみのある思考と表象の習慣を失うことを必要とする。ドゥルーズならこれを能動的な「脱領土化」と呼ぶだろう。
機械への生成変化としてのポスト
横断性によって現勢化される倫理は、関係や相互依存性の優先にもとづいており、非-人間的ないし没-人称的な〈生〉を重んじる。これが、わたしがポストヒューマンの政治と呼ぶものである。
非〈一〉の原理としての差異
〈人間なるもの〉をその自然化された他者から切り離すカテゴリー区分がずらされ、何が「人間なるもの」の基本的な参照単位を構成するのかをめぐるヒューマニズム的前提に混乱をもたらしているのである。第三に、この人間中心主義的な過程は、絶滅の恐怖に束縛された危惧種としての人間というネガティヴなカテゴリーを生み出している。これはまた、非-人間的な他者にヒューマニズム的な価値と権利を代償として拡張するというかたちをとった、人間と他の種のあいだの新たな統合を強いている。第四に、同じ体系が、排除と搾取と抑圧というおなじみのパターンを永続化させている。ポストヒューマン的な主体の位置がもつ利点は、古典的な差異化の軸線をまたぐ関係性と横断的な相互連結に依拠している。
グローバル経済がもたらす日和見主義的なポスト人間中心主義の効果は、「余剰としての〈生〉」や人間が共有する脆弱性という観念を導入し、それによって、ネガティヴなコスモポリタリズム、あるいは反動的に汎人間的な絆が結ばれるという感覚を生み出しているのである。
わたしたちはまた、規律社会からコントロール社会へ、パノプティコンの政治的エコノミーから支配の情報工学へと移行してきた。しかしながら、差異および権力の不均衡は、かつてと変わらず中心的な問いでもありつづけている。
非単一的な主体を構成する非〈一〉性という、ひとを謙虚にするこの経験は、主体を他性への倫理的紐帯のなかにつなぎとめる。ここでいう他性とは、わたしたちが惰性や習慣から「自己」と呼んでいる存在物を構成する、多数的で外在的な他者たちのことである。
はじめに、つねにすでに関係がある。それは、知性をもつ肉体と身体化した心を与えられた情動的で相互作用する存在物との関係、すなわち存在論的な関係性なのだ。ポストヒューマン的な諸差異にかかわる唯物論的政治学は、現勢化を求める潜在的な生成変化によって作動する。潜勢的な生成変化は、集団によって共有され共同体を基盤とするプラクシスを通じて具現化する。
この行方不明者たちこそが「わたしたち」なるものであり、それは、新たな汎人間生成をポスト人間中心主義的に創造することによって喚起され現勢化されるのだ。この「わたしたち」は、ポストヒューマンへの生成変化のアフォーマティヴで倫理的な次元を、集合的な自己様式化の身振りとして表現している。
結論
ポストヒューマンというものは、実際に人間性の終わりを意味しているわけではない。そうではなくて、ポストヒューマンは、人間なるものについてのある一定の考えかたに終わりを告げるものである。
ポストヒューマンは、パターン/ランダムネスの弁証法的内部に位置づけられ、脱身体化された情報ではなく身体化された現実性に基礎づけられることで、人間と知能をもった機械の分節化を考えなおすための材料を提供する。Hayles, 1999:286
ドゥルーズとガタリが教えてくれるように、思考することとは、新しい概念や新しい生産的な倫理的関係を発明することである。
この観点からすると、理論とはある種、支配的な諸価値から組織的に疎遠になることである。
今日の理論とは、何を人間とみなすのかをめぐる基本的な参照単位がこれまでになく変化と変容を被っている状況と取り組むことにほかならない。
『ポストヒューマン | 新しい文学に向けて 』ロージ・ブライドッティ/著、門林岳史/監修、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作/共訳より抜粋し流用。