mitsuhiro yamagiwa

2022-07-25

わたしたちの背後

テーマ:notebook

第三章 非人間的なものーー死を越える生

 芸術は必然的に、人間ではないという意味での非人間的なものになる。というのも芸術は、わたしたちを取り囲む動物と植物や、大地や惑星がもつ力と接続するからだ。さらにまた芸術は、それが共鳴するという点において宇宙的なものであり、かくして構造上ポストヒューマン的である。なぜなら芸術は、わたしたちの身体化した自己がなしうる、ないし耐えうることの諸限界へとわたしたちを連れて行くからである。芸術は、表象の諸々の境界を最大限に引き伸ばす以上、生そのものの諸限界に達し、それゆえ死の地平に直面するのだ。

 テクノロジーへの恐怖と欲望が入り混じった表現は芸術や映画において顕在化しているが、機械的「他者たち」はそうした表現のもうひとつのかたちである。残酷さや暴力を含んだ非人間的な側面は、モダニズムの時代における科学的理性の欠かせない構成要素なのである。

いくつかの死にかた

 わたしたちの公共道徳は、技術の進展が生み出した被害の規模や複雑性という難題に端的に太刀打ちできていない。このことが二重の倫理的な緊張課題を引き起こす。

生政治を超えて

 身体化した主体の表象は、シミュレーションに取ってかわられ、スキゾ化され、あるいは内部はバラバラにされてしまった。さらにそれは亡霊的でもある。身体は、それがつねよりそうであった潜在的な死体として二重化され、終わりなき循環という視覚的エコノミーに捕らえられた自己複製するシステムとして表象されるのだ。現代の社会的想像力は際限ない循環というこの論理のなかに侵され、それゆえにイメージ化された自己をめぐる生と死のサイクルを越えたどこかに宙づりにされている。

死をめぐるポストヒューマン理論

 死は人間のみがもつ特質ではないし、このことは自然が「消滅していく」時代にはとりわけあてはまる。人間は自然の管理人である。という合理主義的な理念の対極にいたったいま、環境にかかわる問いとは、いかにして種の絶滅を防ぐかというものである。これは、生政治にかかわる論点である。すなわち、どの種が生存を許され、どの種は死んでもよいのか。そしてどのような価値基準でそれを決定することがわたしたちに許されているのか。わたしたちは適切な価値基準を発展させていくために、このような取り組みを支え、それをきちんと機能させるような、主体性についての代替的なヴィジョンを必要としている。これが、ポストヒューマン理論が強調する論点である。

 死とは非人間的な概念的過剰である。

 死との近接関係によって生は宙づりにされるのだが、それは超越性にではなく、「単なるひとつの生」の徹底した内在性に向けられている。死との近接関係は、わたしたちが捉えうるかぎりの生をできるかぎり長く、いまここにとどまらせるのである。

 生産的な肯定の倫理は、苦痛やトラウマをどのように取り扱い、極限的な状況にどのように立ち向かうか、といった課題に対処するもうひとつの方法であり、この倫理はそれとともに、ゾーエーーー自我に縛りつけられた人間を超えた生ーーの生成的な力を引き出すよう働きかけもするのである。

 死はわたしたちの背後にある。死は、つねにすでに意識の次元で生じてしまっている出来事である。個別に起こることとしては、死は身体の物理的な消滅というかたちで到来することになる。だが、出来事としてはーー有限性への自覚、わたしの現存在の流れが中断されることへの自覚という意味での出来事としてはーー死はすでに生じてしまっている。

 死の時間性は時間そのものであり、わたしの考えでは、それは時間の全体性を意味している。

 生は過ぎ去り、わたしたちはそれを所有していない。時間貸しの共有スペースにも似て、わたしたちはただそこに住まうだけなのだ。

ある主体の死

 生は十分に長く持続すると、習慣へと生成変化する。習慣が自己充足的なものになれば、生は嗜癖へと生成変化するが、それは必然性や自明とは正反対の何かである。それゆえ、「単なるひとつの生」を生きることはひとつのプロジェクトであり、所与のものではない。そこにはいかなる自然なものも自動的なものもないからだ。わたしたちは定期的に欲望という電磁力を充填しなおし、生へと「急発進する」ことを必要とするーーとはいえ、しばしば自動操縦で日々過ごして終わってしまうのであるが。

 生は快感と苦痛の彼岸にある生成変化のプロセス、耐性の諸限界を引き伸ばすプロセスなのである。

 リオタールは人間というものの構造には、共有された人間性に属することに端的に抵抗し、それを越えて伸張していく何かがあるとした。

 わたしたち皆が意識の次元では生存のためにもがく一方で、いくぶんか深い無意識的な構造の次元においてわたしたち皆が切望することは、ただ静かに横たわり、非-生の静寂のなかで時間がわたしたちを流し去ってしまうのに身をまかせることのみである。自分のスタイルで死ねことはひとつの肯定の行為である。

 わたしたちのうちにある生は、リベラルな個人主義が信奉する狭い専有的な意味においては、わたしのものでも個人のものでさえない。それと同様に、わたしたちのうちにある死がわたしたちのものであるのも、その語のきわめて範囲が制限された意味においてでしかない。

知覚不可能なものへの生成変化

 生はたしかに続いていくーー生を活気づける生気的な力のなかで、苛烈に非-人間的なままで。知覚不可能なものへの生成変化が標づけているのは、諸々の制約された自己が撤退ないし霧散し、中間環境ーー中間の場、すなわち、地球それ自体の徹底した内在性、その宇宙的な共振ーーへと融合していく地点である。あたかもすでに過ぎ去ったかのように書き起こすこと、あるいは制約された自己を超えて思考することは、脱親和化〔=異化〕の究極的な身振りである。このプロセスは、現在、つまり「もはや」と「いまだ」のあいだのどこかという時間の系列において、潜勢的な可能性を現勢化し、過去・現在・未来を出来事の臨界質量へと混合していく。

 死とは、ポストヒューマン的主体が知覚不可能なものへと生成変化することである。そうである以上、死は生成変化の循環の一部分であり、相互連結性ーー多数の力を相互に結びつける生気的な関係性ーーのもうひとつのありかたである。

 自己とは微分的なものであり、状況に埋め込まれ身体化された諸々の相互関係の集合を通じて構成されている。このポストヒューマン的な主体の内的な一貫性を保っているのは、彼/彼女が内在的な次元においてなす諸々の表出、行為、そして他者との相互作用であり、想起の力、すなわち時間における連続性である。

 現在を持ちこたえさせることは、未来の持続可能なモデルである。

結論ーーポストヒューマンの倫理について

 わたしの論点は、主体に関する異なるヴィジョン、そして、それとともに自然-文化の相互作用をめぐる新たな考えを採用することで、批判理論が、非人間的なものについての近代主義的で、かなり還元主義的な諸々の着想を超えていくことが可能になるのではないか、というものである。 

 わたしはこうした枠組みのなかで、世俗的であることを介して創造的な別の選択肢となる非本質主義的で生気的な唯物論を、さらには、ポストヒューマン的な死を主体内部の非人間的な生成力として捉えるアフォーマティヴな理論を提案したい。そうしたことがわたしたち皆をあまりに人間的なものにするのだ。

『ポストヒューマン | 新しい文学に向けて 』ロージ・ブライドッティ/著、門林岳史/監修、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作/共訳より抜粋し流用。