非個人的領域は情熱的である
「公的な」振舞いとは、第一に、自己、自己の直接の歴史、環境、および必要から、ある距離をおいた行動の問題である。第二に、この行動は多様性を体験することを伴っている。この定義は時間と場所の限定を必要としない。
衣服のためのマネキン人形としての身体は、人目を意識した公的な服装様式であった。
記号としての話し言葉もまた公の現象の試練に応じた。それは自己からある距離をおいた活動であり、街では一般原理についての一般的な言語であり、劇場では、人は個人的な気紛れや感動の高揚にしたがってではなく、ふさわしい、しきたりにのっとった瞬間に刺激を受けた。
視覚的な原理は、身分という見地から、また空想の立場から、身体を恣意的に特徴づけることを伴っていた。言葉の原理は、身体の特徴を恣意的に否定することを伴っていた。しかしながら、これら両方の原理が共有しているのは、象徴の拒否、すなわち、しきたりの裏にはしきたりが指示している、「真の」意味であるところの、内的な、隠された真実があるという考え方を拒否することである。それゆえに、視覚的原理と言葉の原理はともに「公的な」表現の定義を鮮明にするーーそれは反象徴的である。
ところで、もし公的領域が感情のある様式にすぎないのなら、公的なもののいかなる分析もここで中止すべきである。なぜならば、これらの視覚的原理や言葉の原理は公の場で感じるための手段だからである。しかしながら、公的なものとはまたひとつの地理でもあるのだ。それは私的なものという、もう一つの領域に関連して存在している。公であることは社会におけるより大きな均衡の一部である。さらに、より大きな全体の一部として、それは政治的行動、権利の概念、家族の構成、そして国家に対する制限などの点に関して意味をもっている。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳