39 内省と共通感覚の喪失
内省とは、自分の魂や肉体の状態にたいする人間精神の反省ではなく、意識の意識そのものの内容にたいする純粋に認識的な関心である。(そして、これこそ「われ思う」が故に「われ思うわれを思う」を意味しているデカルトの「思惟」の本質である。)
つまり、当の生産物の生産者以外、だれも干渉せず、人間は、自分以外の何物とも、だれとも、直面していないのである。たしかに自然科学も、人間は自分以外のなにかと出会い、それを知り、理解できるかどうか、疑い始めた。しかし、それよりずっと前に、近代科学は、人間は、ただ自分自身とのみ係わり合うということを、内省の中で確かめていたのであった。デカルトは、内省という彼の新しい方法によって得られる確実性は「われあり」の確実性だと信じた。いいかえれば、人間はその確かさ、その存在の確かさを、自分自身の内部にもっている。
感覚作用を意識するとき、人は、自分の感覚を感じとり、感じられた対象物も感覚作用の一部分となる。しかし、このように感覚作用を意識していても、それだけでは、形、形式、色彩、布置をもつリアリティに到達することはできないのである。
リアリティか感覚に現われ、真理が理性に現われるという啓示は、いずれも保証されないということがすでに明らかにされているからである。人間は宇宙について知れば知るほど、自分が創造された目的や意図を理解できなくなったのである。
内省によって意識の中に現われる「眺められる木」は、もはや視覚と触覚によって与えられる木ではなく、それに固有の不変かつ同一の形をもつ実体そのものではない。この「眺められる木」は、単に記憶されている物とか、まったく想像上の物と同じ次元で、意識の対象の中に投げ入れられ、加工される。その結果、それは、この過程そのもの、すなわち、意識の本質的部分となる。そして、この意識というのは、絶えず動いている流れとしてのみ知られているものなのである。このようにして、客観的リアリティは、精神の主観的状態の中に、あるいはむしろ、主観的な心的過程の中に、融解してしまう。
人間は、なるほど、与えられた啓示されたものとしてな真理を知ることはできないが、少なくとも、自分で作るものは知ることができるというものである。
共通感覚というのは、ちょうど視覚が人間を眼に見える世界に適合させたように、かつては、まったく私的な感覚作用をもつにすぎない他のすべての感覚を共通世界に適合させていた感覚である。ところが、この共通感覚は、今や、世界となんの関係もない内部的能力になったのである。
しかし今や、人びとが共有しているのは世界ではなく、自分たちの精神の構造である。しかし厳密にいえば、精神の構造も、共有することはできない。
ここに至って〈理性的動物〉という古い人間の定義は、恐しいほど正確なものとなる。動物的な五感を万人に共通する世界に適合させる感覚とは共通感覚のことであったが、この感覚を奪われた人間とは、所詮、推理することのできる、そして「結果を計算する」ことのできる動物以上のものではないのだから。
ここで周知の「科学を数学に還元すること」によって、感覚的に与えられるものは、数学方程式の体系に置き代えられ、すべての現実的関係は、人工的なシンボル間の論理的関係に解体される。近代科学が観察したいと願う現象や対象物を「生産するという任務」を果たすことができるのは、この置き代えによるのである。そして、このような置き代えの前提になっているのは、神も悪霊も、二足す二は四という事実を変えることはできないということである。
40 思考と近代的世界観
この数学的に構成された世界は、本当は、夢の世界ではないのかという疑いを払いのけることはむつかしい。実際、夢の世界では、人間自身の生みだす夢の幻影がリアリティの性格をもつのは、ただその夢がつづく間に限られているのである。
私たち人間が人間でないものを探し求めようとしても、私たちが出会うのは常に人間自身の精神のパターンにすぎないのではないか。
人間が自然に問いかける問題は、いずれも数学的パターンに転換されて答えが戻ってくるのである。
すなわち、科学者は、まず実験を準備するために仮説を立て、次いで今度は、逆に、その仮説を実証するためにこの実験を用いるという悪循環である。このような企て全体を通じて、科学者は明らかに仮説的な自然を扱っているのである。
いいかえると、実験の世界は、常に人工的なリアリティとなりうるようにみえる。
問題は、この物理的宇宙が、純粋に推理してみても、想像することもできず、考えることもできないものであるということである。それが明らかになったとき、人間の精神内部への逃亡は完結する。
『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。