第5節 偉大なる成就
どの行為もみな偶然性を縮減しており、そして絶えず偶然性を縮減しようとすることでこそ社会の秩序と規範は確立される。この意味で、ルーマンはこう宣言できる。「あらゆるエラーは生産的である」。
システムは偶然性を何か蓋然的なものーーつまり予想されていたものーーに転じることで吸収する。
技術システムは、専門化と総体化という一見矛盾した運動を通じて形成される。一方では、もろもろのテクノロジーがますます専門化してゆく。他方では、総体化の傾向が効力を発揮している。
振り返ってみるならば、次のように述べたジャン=フランソワ・リオタールは正しかった。すなわち近代性は、一時代としてではなく、偶然性に耐える一能力として理解されなければならない。
われわれはますます洗練された技術システムにみずからを適応させなければならなくなるということである。それは望ましくない状況に向けて進んでいるーーすなわちテクノロジーによる規定の蔓延とアルゴリズムによる破局の常態化である。
第6章 諸器官の衝突
ルロワ=グーランは、テクノロジーとは記憶の外化と器官の解放であると主張してきた。
しかし、重要なことはときに皮肉の中にこそ身を隠しているものである。
テクノロジーという形式をした無機的なものもまた、遺伝の一形式なのである。それは遺伝子型と表現型よりもいっそう突然変異にさらされている。テクノロジーとは生活保護手段からなる文化としてわれわれに渡されるものである。
テクノロジーは進化論にいう環境と無媒介に接合している。その進化の過程は、適応と採用の弁証法的な運動である。環境への適応だけでは意志の問いを拒否することになってしまうし、採用だけでは意志を偶像化することになってしまう。
近代テクノロジーをそれぞれの伝統に統合しながら、なおかつそれぞれの伝統を変容させることで、技術多様性を再開させる新たな思考を産出できるかどうかということである。技術多様性はいまのところ、技術的特異点つまり文字通りの技術単一性というトランスヒューマニストの想像力に支配されている。
今日われわれが目撃しているのは、組織化された無機的なものから組織化する無機的なものへの移行である。つまり機械はもはや単なる道具や器具でさなく、われわれがその内で生きるところの巨大な有機的なものなのである。
むしろ、われわれは一つの「人工地球」の生成を目のあたりにしており、そしてわれわれは形成過程にある一つの巨大なサイバネティクス的システムの内で生きている。これが、われわれが現代に哲学することの条件をなしている。
マーシャル・マクルーハンが一九七〇年代に自然の終焉こそが生態学の誕生であると述べたとき、彼はすでにこれを観察していた。
ビッグデータ解析や機械学習やスマート化などによりわれわれが見通すのは、都市生活が完全に自動化されるであろうこと、そしてかかる自動化が生態学的で持続可能なものを目指していること、つまりそれがもろもろの巨大な再帰的でサイバネティクス的な機械の実現を含意しているということである。
呪術的段階では、主客は未分化であり、図と地も調和の中で共存している。つまり、図はあくまで地の図であり、地はあくまで図の地である。絶えざる分岐ーーまず技術と宗教に分岐し、そしとそれぞれが理論と実践に分岐するーーは、やがて図と地の絶えざる発散へと到る。図を地へと絶えざる収斂させるには(美学的な思考の失敗を視野に収めた)哲学的な思考が要求される。
「そこにあること」の明文化を必要とする人間の現存在と同じように、近代テクノロジーもまたその発生の中に状況づけ直され我有化し直さなければならない。
つまり人間性とは、整合的で永続的な実体などではなく、アクシデントなものなのである。
人間という概念は一つの偶然的歴史的な概念なのである。人間とは一つの技術的な実存であるという見解に賛同したとき、すでにわれわれはポストヒューマンなのである。
テクノロジーは精神の一産物である。素朴唯物論者はこれが理解できず、精神をテクノロジーの産物と見なしてしまうーーそして不幸にもそれがわれわれの時代の実情なのである。
『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。