第11章 ウィキリークスーー知識人の抵抗、もしくは陰媒としての普遍性
われわれは、普遍主義的なプロジェクトのみが現実の政治的変化をもたらすことを歴史から知っている。
ウィキリークスのエートスとは、グローバル化され普遍化された、市民の行政サービスのエートスである。
インターネットはもともと、国家の官僚制の権力を超越し、衰退させる契機として迎え入れられた。
おそらく、新たなインターネット普遍は、情報および技術に関しては統合されたものになっても、精神、イデオロギー、文化、政治に関しては人類を分断されたままにしておく。しかし物事はそんなに単純ではない。歴史的に知られた普遍主義のプロジェクトは、個人の見方を超越し、誰にとっても開かれていない誰にとってもあてはまる、普遍的な見方に到達したいという伝統的な信仰と哲学的な欲望から生まれた。そのような超越的行為の可能性に対する深い不信のために、二〇世紀の間、普遍主義は信用されてこなかった。しかし、普遍的な視点は何も開かず、超越することなしに、自分特有の見方を拒絶することはいまだに可能である。超越の行為はラディカルな還元の行為に取って代わられる。
しかし、何の個人的なメッセージも世界観も持たない主体性の可能性、オリジナルで個別的な意味や意見を全く生み出さない中立的で匿名の主体性の可能性も存在する。
それは、自分自身の考えや洞察、欲望を表明することを望まず、単に他の主体がアイディアや意見、世界観、欲望を表現するための条件と可能性を創造することを望む主体の主体性である。
それらが普遍的な主体であるのは、普遍的な視点に対する自分の特定の視点を超越しているからではなく、ただ自己還元という特異な行為を通して、あらゆる私的で、個人的で、特異なものをただ消滅させるからである。
彼らは中立的で匿名の主体であって、古典的な神学もしくは形而上学のメタ主体ではなく、むしろいわば、現代生活のインフラを広めるインフラ主体なのである。
ウィキリークスは自身のメッセージを伝えることを目的とするのではなく、たとえメッセージを生み出した者の意思に反してはるかに遠くまでそれらのメッセージを運ぶとしても、他者のメッセージのみを伝えることを目的としているからである。
自分の見方を表明する代わりに、クラークは他者が自分の見方を表明する状況を作り出す。しかしながらこの行動は決して純粋ではない。
コミュニケーションを統御することは主観的な幻想であることが現代のメディア理論によって明らかにされている。この主体がメディアを通してメッセージを発し、安定したものにし、伝達することの不可能性は、しばしば「主体の死」として特徴づけられる。
インフォーメーションの流れは、全ての個人のメッセージを多かれ少なかれ偶然的な漂うシニフィアンの集合体へと変えることによって、それらすべてを消滅させ、移行させ、覆す。
私たちは世界をより適切にするよう世界に対して影響を及ぼす行為を生み出すために、情報を使いたいのかどうか?どの情報がそれに役立つのか?
この巨大な領域の中の情報のいくつかは、もしそれを注意深く見るならば、かすかに光を放っています。そして何がそれを光らせているかというと、それを抑圧するよう強制された仕事の総計なのです。
つまり、透明化されるべきかどうか見分けるに値することがあり、検閲は強さではなく弱さを表明しているのです。
記号の流れを人為的に中断する検閲は、普遍的な知識の風景という崇高なヴィジョンを歪める試みとして受け止められる。特定の利害関係者は自分たちが不適切で時代遅れだとみなされると、このヴィジョンを損なおうとする。
ハッカーは、特権的なアクセスの領域として理解される個人の主体性の境界を克服し、その秘密を発見し、メッセージを解釈する代わりに流用し、そしてこのメッセージを解放してメディア・ネットワークに分解させる。
伝統的なメディアは、セレブリティたちを追跡して彼らの個人的な生活を暴露する以外は何も実践しない。
結局根本的な妥協なき普遍性は可能なのか?答えはある条件のもとではイエスである。それは普遍的なものは、孤立せねばならず、絶えずそれを破壊する個別のものの世界からは保護されているという条件である。
もしくは、いいかえれば。われわれの特殊性の世界においては、普遍性は陰謀という形でのみ、そして完璧なアクセス不可能性、不透明性、不明瞭さという条件のもとでのみ機能しうる。
普遍的な真理は、アイデンティティの複数性と、いかなる根本的な対立も引き起こさないような視点に取って代わる。
むしろわれわれの意志は権力についての極めて特別な考えから来ているのです。それはある巧妙な数学的処理によって極めて簡単にーー抽象的には複雑に感じられますが、コンピューターによってできるという意味で簡単ーー極めて強力な国家に対してある個人がノーと言うことを可能にするという考えです。
すると国家は、単に国家がそれをすることができないという理由で、個人が何かをすることを望むことがあります。この意味で、数学的処理と個人は超大国よりも強いのです。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳
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