mitsuhiro yamagiwa

2023-12-10

不信と結束

テーマ:notebook

コミュニティの人道的な損害

 不寛容が成長することはうぬぼれた自尊心、傲慢、あるいは集団的自信の結果ではない。それはもっとさらに脆い、自信喪失の過程であり、そこではコミュニティはたえず感覚をあおりたてることによってのみ存在するのである。

 細分化された社会空間のなかで、人々はいつもお互いが切り離されることを恐れている。この文化が人々に他の人々と「つながる」ために提供する材料は衝動と意図の不安定な象徴なのである。どこまで行けるだろうか、どのくらいコミュニティの感覚が感じられるだろうか?人々は現実の感情を極端な感情と同一視しなければならなくなるだろう。

 ちょうどカリスマ的経験がそれらの政治構造との交渉からそらすことになるのと同じように、コミュニティを作ろうとする試みはそうした構造から注意をそらす。

 人々がこうしたコミュニティの激情にのめりこんでいればいるほど社会秩序の基本的な制度は手つかずのままでいるのである。

 コミュニティたらんとして苦闘している人々はますますお互いの感情に夢中になり、「地域の参加」や「地元のかかわり」にきわめて熱心な権力の制度に挑戦することはいわずもがな、理解することから引き下がってしまうのである。

 コミュニティが実際の権力をもっている市や国といったより大きな構造に向き合わねばならないとき、コミュニティはみずからに夢中になりすぎて、外界に耳を傾けないか、あるいは疲労しきっているか、あるいは断片的なになってしまっている。

 非個人性を恐れる社会は偏狭な集団的生活のファンタジーを奨励する。「われわれ」が誰であるかは、きわめて選択性の強い想像力の行為となるーーすぐ近くの隣人、会社の共働者、家族。

 想像力が局所的になればなるほど、われわれは巻き込まれまい、われわれはこれに邪魔されまい、という心理が必然的に働く社会的利害や問題の数がますます多くなる。それは無関心ではない。それは拒絶であって、普通の自我が容れることができる経験を意図的に収縮しているのである。

 問題となるのは人がどの程度まで進んで危険を冒すかである。他の人々とわかちあえる自己の意識が局所的であればあるほど、人は危険を冒したがらないものである。

 局所的規模より外の現実に対処し、取り込み、開発することを拒絶するのはある意味で普遍的な人間の欲求であり、未知なものに対する単純な恐怖である。衝動をわかちあうことで形成されるコミュニティ感情はこの未知のものに対する恐怖を強化するという特別な役割をもっており、閉所恐怖症を倫理的原理に変えてしまうのである。

 人々は同一の感情をわかちあわないことになろう。気持ちが変わった人はコミュニティを「裏切る」ことになる。個人の逸脱が全体の力を脅かす。したがって人々は監視され、験さねばならないのだ。不信と結束は、まったく正反対と思われているが、一つに結びついものである。

 その答えの結果は外部への挑戦ではなく、外部を退けることであり、背を向けて、「理解してくれる」他の人々と用心深くわかちあうことへもぐりこむことだ。

 それは他の人々とわかちあう直接的な経験を社会的な原則に変えた結果なのだ。

 コミュニティが着手する行動は感情面での管理の活動だけであり、コミュニティを浄化して、他の者たちとは感じ方が違うために真に属していない者を除くのである。コミュニティは外部から取り入れ、吸収し、みずからを大きくすることはしない。そんなことをすれば不純になるからである。

 人々が社交的になれるのはお互いがお互いから保護されているときだけだということである。障壁、境界がなく、非個人性の本質である相互の距離がなかったならば、人々は破壊的になる。

 現在、都市計画の真の問題は、何をなすべきかではなく、何を避けるべきかである。

 問題は、われわれの特異な病気の徴候をどう認識するか、非個人性を本質的に道徳的悪とする誤った観念と同じように、人道的な尺度とは、またら良きコミュニティとは何であるかについての当今の観念のなきにある徴候をどう認識するかである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳